「共有価値」をともに創る

                                    前田清隆


⑦哲学する学び・自由の学び

前回、本質観取のことに触れましたがもう少し述べさせてください。WEB雑誌『本質学研究』で西研さんは、本質観取のワークショップのやり方を「自由」を例にとって説明しています。まず、「それぞれの人はどういうときに自由を実感するか」「私たちはどんなときに自由という言葉を用いているか」という問いから始めます。「真の自由」を問うのではなく、それぞれの体験を語りあい、みんな(参加者)で聴きあうことから始めるところが大切だということです。〔※〕

共同で共通する本質を考えあうことは、主体的・対話的な学びを促すという現在そして本来の教育の課題に応えるものだと思います。考えあうことが成り立つためには、すなおに感じたことや思ったことを言っても大丈夫、最先端の知識とかを知らなくても大丈夫、というお互いの合意が大事でしょう。はじめに、みんなが自由に発言できるためのルールを確認しておくといいと思います。そして、語りあい聴きあい考えあう中で、自分の中に自分の軸がたしかなものになってくることを実感できればと思います。

社会の利益という観点でいうと、「みんなが自由になることはみんなに共通の利益」だと思います。みんなの自由を実現することは政治の課題であり、そのための力を養うことは教育の課題だと思います。自由と言っても、もちろん自由放任では実現できません。みんなが自由であるために、どういうルールや制度が必要なのかを考えなければなりません。それは国内にとどまらず、国際社会にまでおよぶことも多くあります。そのルールや制度を考える力をつけるのも教育の役割だと思います。

知りたいことを知ることは楽しいですが、小さい頃味わったその喜びはしだいになくなっていき、勉強が単なる圧迫になってしまいがちになります。知識を習得する学習を通して、「自由な学び」を実現することも必要だと思います。知識を理解する過程で、固定観念から解放されることがあります。また、既知の知識を吟味したり、知ること・わかることの意味を改めて考え直したりすることによって、知ったつもりになっていたことに気づくこともあります。それは、「自分を自由にする学び」と言ってもいいかもしれません。

自由な社会を自治の社会として維持し内実を図るのは難しいことです。自由・自治の精神を養うのは難しいですが、抑圧の連鎖や抑圧と怨恨感情の悪循環に陥らないためにも行うべきだと思います。「まわりの人の自由に配慮することが、自分が自由になるためにも必要」という感覚を味わえる経験を学校でもいろいろな場でできたらいいと思います。

かつて同僚が「なんで集団で学ばなきゃいけないんですかね?」と言っていました。その時は社会性がどうとか、自分なりの考えを言ったのですが、あまり納得した様子ではありませんでした。実際いじめの問題などを考えるたび、このことを思い出します。一時的に避難することが必要なこともありますが、やはり、共同でみんなにとって大切なことを考えあう学びの中で、自由の感度が養われるようにできれば、人への信頼にもつながるのではないでしょうか。

『本質学研究』第2号研究ノート

西研「本質観取とエピソード記述」を参照してみてください。


⑥哲学する学び・民主主義の学び   

 「今どんなことで困ってますか?課題は何ですか?」「あなたはどうしたいんですか?」という問いかけに、お互いの体験や思いを出し合いながら、参加者が語りあいました。教育センターでの研修です。初任者研修も、ある程度経験を積んだ人の研修もありました。

実は教育センターに勤務することになって、はじめは「えらいことになっちゃった」と思いました。「生徒がいてなんぼだな、教師は」と思いました。でもやっていくうちに、生徒に対するのと結局根っこは同じではないか、と思うようになったんです。進路相談も生徒指導もこういうふうにやっていたではないか、と。「自分の体験を振り返り自分と向き合う」「問題を共有して考えあう」ことは同じです。こういった過程は「自分をわかる」「人をわかる」過程でもあります。人の言っていることに賛成ではなくても、「この人はこういうことにこだわっているんだな」と受け止めたりします。

こういうふうにいうとさぞかし、いい研修ばかりやっていたようですが、学習指導要領の趣旨説明を単なる上意下達的な講習と解釈されて、教員をがっかりさせたりしたこともありました。自分としてはとても残念でした。研修に参加した教員にしてみれば、「私たちの問題から始めてくれる人だと思ったのに、やっぱり最終的にはこれか」という思いであったのかもしれません。学校教育と教員研修とは違うのですが、生徒も先生も自分で考えみんなで考えあい、問題を解決していこうとする学びの支援をするということは同じです。 

ある時期僕は、本質という言葉にちょっと距離をおくようになったことがありました。でもその後、「変化する本質」とか「私にとっての本質」とかあるのではないか、と思うようになりました。私がどう思おうとそこにある本質ではなく、「私にとっての本質」から始めて、みんなに共通する本質を探るという具合にはいかないか、と思いました。

西研さんは「観点ないし問いがなければ本質を取り出すことは不可能」と述べています。これは「変わらない本質があらかじめある」という本質という言葉がもつイメージとは違います。「問いが本質に先立つ」というとらえ方です。〔※〕

『道徳』が特別の教科になります。「アクティブ・ラーニング」も話題になっています。語りあい聴きあい、互いに読み書くことで、それぞれにとっての意味や価値、みんなにとっての意味や価値を考えることがますます重要になってきています。

人それぞれの体験から始め、問題を共有し考えあい、そこから共通に納得できるものをつくろうとする学びは、「哲学する学び」であり「民主主義の学び」でもあると思います。

僕は社会科(公民科)の授業で、民主主義の制度やそれを支える思想、民主主義を形骸化させかねないものについて話してきました。それも大事なことです。しかし生徒が、自分たちがほんとうに大事にされている、認められているという感覚を味わえること、みんなで共有できる大事なものをつくっていけるという感度をもてることが、何より大切なことだと思います。西さんの行う本質観取のワークショップは、そういう感度を育ててくれるものだと思います。

※『人間科学におけるエヴィデンスとは何か』(小林隆児・西研編著)

第3章「人間科学と本質観取」を参照してみてください。       


⑤本質をつかむ学び

 「アクティブ・ラーニング」などの「改革」が唱えられていますが、「で、子どもは何を得たの?」と言われるような上滑りしたものにはしたくありません。「活動的」ではあるけれど、子どもが主体的になっていない「学び」があります。「子どもが学ぶ主体となる学び」が大切だと思います。学ぶ過程において、学ぶ主体になっていくよう支援したいということです。

今「対話する学び」を支援する教育が必要だと思います。前に少し述べましたが、ここでいう対話は、自分や学習材との対話も含みます。クラスメイトと議論するだけではなく、自分と向き合ったり、先人の力を借りたりすることで、自分の問題や現代の問題の解決をめざす学びです。「対話する学び」は、自分の考えをつくるとともに、協同して共通の価値をつくり出す学びでもあります。

また、知識習得だけではなく、思考力・判断力・表現力を養うことが大事と言われますが、「知識とは何か」が問題です。さまざまな知見がありますが、ここでは自分の体験の中から考えてみました。僕は大学受験の時、何度世界史の参考書を読んでも覚えられませんでした。ある時、関連の中で事実(出来事)を理解すればいいんだという発見(?)をしてから、覚えようとしなくても覚えられるようになった経験があります。そして、自分なりの問いをもって歴史に向かうと、新たな姿を見せてくれることも知りました。僕が見つけるまでもなく、どちらもあたりまえのことですが、自分の学習の中で自分なりにつかんだことなので、この「発見」は後の知的基盤になりました。自分の文脈で生まれた自分の知識だから、進化したり革新したりできたのでしょう。その後、教育実践の中で「まず客観的事実ありき」ではないのではないか、などの革新もありました。しかし、子どもが知識(の芽)を生み出しているのを、本人も教師も気づかないことはよくあることです。僕も気づかないことだらけでした。「知識を生み出す学び」を支援する教育も大切だと思います。

高校時代、教師志望だった僕は「みんなが学ぶべきことって何なのか」を考え、結局わかりませんでした。そして、教師になって「民主主義を形骸化させない」ために社会を知ることが大切だという思いから始まりました。社会科(公民科)の教師でしたから、授業で個々の事実やさまざまな考え方を学ぶことを通して、「われわれの課題は何か」を考えてもらいたいと思って授業をしていました。要するに、「民主主義を身につける」教育をしたかったんだと思います。社会科授業を通して、学習活動全体を通して、知識を身につけたり、態度・感覚を身につけたりすることをめざしていたんだと思います。僕たちは異論に対して時に身構えます。でも、教育的には多様性があった方がいいし、授業はもちろん、さまざまな学習活動において、「多事争論」であることがのぞましいと言えます。そして、そこから、「ここは共有できる」という経験を重ねていくことが大切だと思います。知識の断片を記憶させるだけの教育ではいけないということは広く言われていますが、個々の事実からそこに貫いているものを見出す楽しみは、もっと味わってもいいような気がします。高度成長があった、バブルが崩壊した、デフレが続いている、事実をいくら積み重ねても「経済とは何か」がわかるとは限りません。「本質をつかむ学び」を支援する教育が、今必要だと思います。

ずいぶん前から、シチズンシップ教育の必要性も唱えられていますが、本来、教育は自立や社会参加を支援するものです。社会が本当に「多事争論」であり、共通価値を創造しているかが問われます。また学校教育も、その練習の場であることによって、民主主義社会が「革新」していけると思います。


④みんなの利益を実現する民主主義のために ―『エミール』に触発されて―

民主主義がみんなの利益を実現するというのはあたりまえのように思われますが、本当にあたりまえでしょうか。逆に、みんなの利益を実現しない民主主義があるのでしょうか。

以前「パティシエになってみんなを幸せにしたい」と言った生徒の話をしましたが、そういうはっきりとした自分の希望をもった生徒はあまり多くありません。むしろ「自分がやりたいことがわからない」と多くの生徒は言います。自分のことだからわかりそうなものですが、自分の高校時代を思い出しても、それがなかなか難しい問題です。なぜ難しいのか、ルソーならば「自分のため」に生きていないからというかもしれません。世間基準ではない自分の判断基準をもっているか、が問われているのでしょう。社会環境は競争ゲームで満ちている、そこで多くの人々とは「自尊心」をもったり、もてなかったりしています。

言いたいことは、今、公共の利益をめざす態度を育む教育が必要であり、それは本当の意味で「自分のため」に生きているか、を考えることから始めたらいいのではないか、ということです。

ルソーは『エミール』の中で「若者を分別ある人間にするには、わたしたちの判断を押しつけるようなことはしないで、かれの判断力を十分に鍛えなければならない」(上巻p429)、「わたしたちが獲得しようとしているのは学問ではなく、むしろ判断力なのだ」(上巻p443)と言っています。

パティシエ志望の女子生徒は、自分の判断基準がはっきりしていました。自分の好きなことをやる、それでみんなが喜んでくれたらこんなうれしいことはない、ということです。進路指導(相談)や生徒指導の時、「本当にやりたいことは何?」と聞いて考えさせようとするのは、生徒が自分自身の声を聴くためです。「自分の声を聴く」訓練は小さい頃から必要であり、「自分の関心に関心をもつ」ことが大切です。そうでないと世間基準にどうしても流されがちになり、とりあえず有名大学に入って、とりあえず大企業に入るという(現在では色あせたとはいえ)現実的と言われる選択がなされることになります(もちろん有名大学や大企業に入ること自体はいいのですが「とりあえず」が気になるところです)。

今、民主主義の質の向上が政治・社会の課題になっていると思います。なっていなければ課題とすべきだと思います。それぞれが私益を主張し、多数決で決める、それが民主主義でしょうか。制度の問題はもちろん大事ですが、民主主義を担っていく力を子どもがどう身につけていくこともあわせて重要であることは言うまでもありません。一人ひとりの人間としての尊厳を守る(互いに守り合う)という大きなテーマと自分(たち)の利益を両立させなければなりません。

しかし、公共の利益を考える態度を育む教育は日本でも必ずしもうまくいっているようには思えません。何が公共の利益なのか、みんなとは誰なのか、何が自分の利益なのか、を考えられるようにしなければならないのですが、これがまた難しい課題です。

僕は、誰しももっているルソーのいう「自己愛」から考えたいと思います。

ルソーは「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ」(中巻p32)、「よいことにたいする愛、悪いことにたいする憎しみは、自分にたいする愛と同じように、生まれながらにわたしたちにある」(中巻p221)と言っています。

こういう人間観とは違う考えの人もいるでしょうが、わたしたちが人間の本性と言っているものの多くは、文明人の本性だったりする気もします。僕は少なくともみんな「自己愛」はもっていると思っていますし、すぐれているから自分を愛するのではない、弱さを含めて愛すると思っています。エゴイスティックな面も嫉妬深さも、文明社会によってかなり助長されたものだと思っています。そんなことを言っても、現にわたしたちは文明社会に暮らしているから仕方ないと思われるかもしれません。たしかに、エミールのように文明社会から距離をおいて育っていくことは、誰でもできることではありません。だからこそ、この社会の中で、自分を見失わないようにすることが大事になってくるし、教育はその役割を担わなければならないと思うのです。

僕は教師になるとき、民主主義を形骸化させないようにするには教育が大事だと思いました。同時に、他の誰でもないその子がその子らしい幸福な人生を送れるようにするのも、教育の目的です。そのためにもまず、本当の意味で「自分のため」に生きることができるようにしなければなりません。そして、自分の判断基準をしっかりともつ必要があります。自分の利益を考えることが、ルソーのいう「一般意志」を実現しようとする態度にもつながるように、教育はなされるべきだと思います。

統治形態や決め方だけに着目した民主主義は、みんなの利益を実現しないこともありえます。自分自身のことを考えても、これまで行ってきた自分の教育を考えても、どれだけそういうことができたか、反省するところが多いですが、この課題は教育の本質にかかわる問題だと思います。

引用・参考文献:『エミール』(岩波文庫 上・中・下巻)(ルソー著)

 『ルソー エミール』(NHK100分de名著)(西研著)


③「自分の考え」をもつ授業

「思考力の育成とか言ってるけど、大学入試問題が変わってから考えるよ」とか、「うちの生徒は知識を理解するのがせいいっぱい」とかいう声が、かつて高校に勤めていた頃の僕のまわりでは聞こえてきました。いわゆる進学校とそうでない学校の違いはあれ、知識習得中心の考え方は共通しています。大学入試のあり方も変わってくるようですから、少なくとも前者のような考え方は、今はあまり聞こえてこないでしょうか。

生徒が自分の考えをもつことを促す教育はいろいろな教科の授業で行われるだけでなく、現在課題とされている主権者教育もそうでしょう。社会科(公民科)授業においても、生徒が社会的事象に対して自分の考えをもち、政治観や人間(自分)観をもつことを促すことは大切なねらいです。社会的事象に対して自分の考えをもつためには、社会的事象に対する理解を深めなければなりません。先人の考え方を知ることや人と議論することは、自分の考えを明確にしたり深めたりします。ただし、自分の考えをもつといっても、硬直化しないように気を付ける必要があります。コロコロ変わるのはよくありませんが、常に自己更新できるだけの柔軟さが必要です。先人の叡智を学んだり、人と議論をしたりすることによって、さまざまな考え方や生き方があることを知り、自分の考えに気づいたり、自分の考えを吟味したりしながら、考える力も身についてくると思います。考える力は教材と対話し、自分と対話し、他者と対話することによって身につきます。

と偉そうに言っても、僕も考えあう授業を時々試みていましたが、なかなか思うようにはできませんでした。生徒に意見を求めると「○○君がそう思うんだからそれはそれでいいと思います」といった、相互不干渉主義のやりとり(?)になることもありました。

教育センターに勤務が変わって、教員研修を担当するようになり、授業を参観させてもらう機会もしばしばある中で、「考えあう」観点から自分の授業を改めて振り返りました。もうちょっとあの場面は掘り下げて「なんでそう思うの?」と質問すればよかったなとか、判例を教材にした時は比較的みんな考えていたのはなぜだろうとか、などと思いました。もっと単純に言えば、高校生は人前で意見を言うのが嫌なんだろうなと中途半端に諦めている場合ではなかった、ということです。

互いに尊重しあわなければ考えあうことはできない、考えあう議論は知識の多い少ないではない、力づくではない、数の問題でもない、逆に言えば、考えあうことを繰り返し体験する中で、互いに尊重する感覚がわかるということだと思います。話し合い活動を行う授業をいろいろみせてもらいましたが、中にはこれは考えあっているのなあと思う授業も正直ありました。「活動あって学びなし」と昔から言われていますが、その懸念は今もあります。

近年は自分の考えを主張できることが強調されますが、僕は考えあうのは聴く態度がポイントだと思っています。最後まで人の話を聴く、なぜこの人はこう思うのか、言いたいことの中心を考えながら聴く、ことが大事だと思っています。考えあう議論は勝ち負けではない、ことも気をつけたい点です。話し合いが本当に考えあうことになるように、生徒の状況に応じて、聴く態度についてはじめにルール確認をするのもありだと思います。

言うまでもなく、それぞれが自分の考えをもってみんなが考えあうというのは、授業だけのことではなく、クラスの活動も含めてあらゆる教育活動で大事なことです。主権者教育も、そういう実践の延長線上にあれば意味があると思います。

「人それぞれ」が、単に自分を守る(それ自体は当然なことですが)だけの理屈になってしまわないためにも、考えあう中でこそ「人それぞれ」が本当に尊重されることを実感できる経験が必要だと思います。考えあうことは単に仲良くしようというものでも、ましてみんな同じ考えをもとうというものではありません。議論して考えを共有できるとは限らないですが、対立している互いの共通点を探ったり、対立する意見の双方が(完全ではないとしても)納得する考えをつくり出したりする経験を積むことは意味があるはずです。考えあえないことが少なくない現実の中で、考えあうことを促す教育はすでにいろいろな言い方でいわれています。

自分で問いをもって考えることで知識理解が深まり、「互いの考えを交換し理解しあう」ことで、自分の考えがより確かなものになると思います。


②自分のため人のために学ぶ


人は知りたいことを知りたい、考えたくないことは考えたくないものですが、勉強しているうちに興味がわいてくることもあります。また、人に認められたいとか人の役に立っている自分でありたいということが、学習の動機になることもあります。


「自分のためにはもちろん、世のため人のために勉強しよう」とかつて全校集会で、生徒たちにぬけぬけと言ったことがあります。自分のために勉強するというのはわかるけれども、世のため人のためというのは違和感がある人がいるかもしれません。また、自分のためといっても、とりあえず有名大学をめざして勉強することが自分のため、という話も以前よりは説得力が薄れてきているように思います。


近年ますます価値観の多様化が進み、いろいろな職業・仕事が今まで以上に認められてきたように思います。「パティシエになって人を幸せにするお菓子をつくりたい」「社会福祉士になって地域の人たちの役に立ちたい」「保育士になりたい。子どもが好きだから子どものために働きたい」これらは生徒たちから聞いた言葉ですが、ストレートすぎて、その時は「そうか。頑張れ」としか言えませんでした。彼らにとって、自分のためと人のためは、特に区別して考える必要がなかったのかもしれません。こういう生徒たちは、自分の希望に向かってせっせと勉強していくわけですが、むしろ志望が明確な生徒は多くはないでしょう。自分がどう生きたいのかわからない、わからないから考えるということが学習の動機になったりもします。


パティシエや保育士になりたいと言っていた生徒には、社会をつくるとか変えるとかいうイメージはなかったかもしれませんが、職業・仕事を通して、それなりの役割を果たしたいという気持ちは感じました。職場体験(インターンシップ)などの方法論は、すでにたくさん提案され、地域の方々の協力もあって実施もされています。学校の中にも、学級(ホームルーム)活動など集団で取り組む場面が多くあります。みんなで目標を達成しようとすることや課題を自分たちの問題として解決しようとすることによって、社会に関わっていく素地ができていきます。それが子どもにとっては、学校の面倒くさいところにもなります。

先日、はじめて担任をした子たち(今は50過ぎの紳士・淑女です)が家に来てくれました。当時僕は生徒会の顧問でもあったのですが、改選期に会長・副会長の立候補者がでないので、そのままだと生徒会が動かなくなってしまうと言って「お前たちから会長・副会長候補者を出せ」と迫った(?)のです。全然「教育的」ではありません。彼らはまだ高校に入って間もない1年生です。当然「えー」です。一人が当時を振り返って「あの時はさすがに面倒くせぇなあと思った」と言って笑っていました。

結局、うちのクラスから出た会長・副会長(候補)は生徒会を運営することになったわけですが、クラスの仲間がサポートしてくれたおかげでもあります。授業のことに話がおよぶと、一人が「先生の授業よくおぼえてないなあ」というと、他の者が「いや、少しはおぼえてるよ」と笑ってフォローしてくれていました。


集団生活は楽しい子にとっては楽しいけど、そうでない子にとってはかなりやっかいなものです。いったんは退避することが賢明な場合もあるでしょう。ですが彼らはあの時、集団をまとめたり、いろんな意見を調整したりする経験ができたし、それをサポートする役割を果たす者も、できるだけまわりを巻き込んで問題を解決してくれていたと思います。今から思うと決してほめられた方法ではありませんが、授業だけでは味わえない経験です。


子どもの可能性を広げることや自分の将来を自分で切りひらいていく力をつけることは、教育の大事な役割です。また、“社会をつくる人を育てる”ということも教育は担っていると思います。自分たちの社会を自分たちがよくしていこう、という意識を子どもがもつようにすることは、たしかに容易なことではありません。目の前のいじめに対して、どうしたらいいのかわからないという子もいるでしょう。しかし一方で、自分たちのクラスの問題を何とかしよう、みんなでいいクラスにしようとしている子もたくさんいます。

僕が(当時)新設の高校で担任をしていた頃、あることをきっかけに欠席をしたり、大幅な遅刻をしたりすることが続くようになってしまった生徒がいました。家に行ったり話をしたり、なだめたりすかしたり、とにかく考えられることをいろいろとやって働きかけました。クラスの生徒たちも陰に陽にいろいろと動いてくれていました。きっと僕の知らないところで、もっと助けてくれていたんだろうと思います。幸いその生徒は、何とか卒業して就職することができました。

この時のクラスの生徒たちは放っておけないから動いただけで、別にいいクラスにしようと思っていたわけではないかもしれませんが、その放ってはおけない気持ちが僕の支えにもなりました。文化祭や球技大会など行事に参加するごとに、クラスとしての一体感が増していったように思います。そして、その輪に入れなくて少しそっぽを向いている子に対しても、さりげなく何人かの生徒が働きかけていました。悩みがないようにみえる子もそれぞれ悩みはあります。そういう悩みはクラスの問題とはなりません。学校の集団生活で解決できることは限られていますが、あの時のいろいろな経験は単なる思い出以上のものになったと思います。

何とかしようとしている子の気持ちも、何かしたいけど何にもできないと思っている子の気持ちも受け止めて、自分のためにはもちろん、人のためにも学べるようにできれば、と思います。



共有できる価値を生み出す学習

この小文は、教師の方々に向けて特に若い人たちに読んでもらえるように書いたつもりですが、さまざまな仕事や生活をしているみなさんに届く内容になっていれば有難いです。

僕が最初に校長をしていた高校は、生徒が自分でテーマを設定して探究する学習に力を入れていました。研究発表は、探究の過程や成果をみんなにもわかってもらいたいという思いが伝わってくるものでした。環境や福祉に関する学習成果を発表する生徒もいれば、自分のデザインした服を友達に着てもらってファッションショーをやる生徒もいて、多様性に富んだものでした。

また、その高校の体育祭は(よくあるように)4つのグループに分かれて競い合うものでした。リレーなどの競技はもとより、各グループで行う応援合戦やマスコットづくりでは、ふだん教師たちに心配かけるような生徒が、他のメンバーと協力してグループを盛り上げようとしていました。頑張ったのに勝てなかった生徒たちの泣きじゃくる姿は今も忘れません(その輪になかなか入ることができなかった生徒たちがいたことも)。課題研究も体育祭も、問題発見・解決的な学習であると同時に、価値を発見する学習であり共有価値の創造であったように思います。(どちらも教師たちの適切な指導・支援がありました。)

小学校で生活科が始まって間もない頃、生活科の授業を参観させてもらったことがあります。公園の活動でしたが、高校の教師経験しかなかった自分には正直わけがわかりませんでした。何をどう観たらいいのか、あちこちで子どもが好き勝手に遊んでいるようにしかみえませんでした。後になって、子どもの気づきに僕が気づいてなかったということがわかりましたが、子ども自身も自分の気づきに気づくことが当然大切です。自分の気づいたことをみんなと共有したいという思いが、自らの気づきを自覚することにつながると思います。

逆に子どもは、長く多くの人に認められてきた文化遺産や知的財産だからといって、その価値を認めるとは限りません(そういう態度は必ずしも悪いとは言えません)。教師がこれはいいと思って教材にしたものが空振りに終わることはよくあります。かと思えば、さきほどの公園の話ではありませんが、ほんの小さなことが学習材になったりします。

自分自身や日常生活や自然の中に、そして百年千年人々が育んできたものに価値を見出せることはすばらしいと思います。多くの人々が大事にしてきたものを受け止めたうえで、自分とのつながりの中で考えたり味わったりすることができればいいと思います。人(先人や教師や友達)がいいと思っていることを「受け止める」練習も、自分がいいと思っていることを人に伝える練習も必要です。

僕が授業をしていただいぶ昔の話ですが、「政治・経済」の授業で議論する学習を1年間続けたことがあります。時事問題などを中心に、教科書の記述事項と関連させながら毎回議論を進めました。その当時は必修ではなく選択の少人数授業だから、たまたま少し充実した授業ができたのかなと思っていたのですが、あの時自分は、生徒たちが自由な議論の空間をつくり、互いの考えを深めあっていることを自覚するようにできていただろうかと思い返します。自分たちがやっていることの意味を自覚することによって、次につながるものになると思います。

さきほどの高校の卒業式の時、ちょっとやんちゃだった生徒が卒業に必要な単位がとれず一緒に卒業できなかった友達に向かって、ぶっきらぼうだけどあったかい言葉をかけていたことを思い出します。「あの子がこういうことを言えるようになったんだ」と思いました。あっちにぶつかりこっちにぶつかりしながら、成長してきたんだと思います。(これも担任はじめ教師たちが根気強くつき合ってくれたおかげです。)

そうはいっても、子どもがいつも価値に気づいているではないし、価値を生み出しているわけではないでしょう。社会的にも痛ましい事件がいくつも起こっています。目の前にはいじめの問題があったり受験問題があったりして、よさを認めるだけではすまないと思われる問題が山積みです。教師力だけで教育の問題が解決するとも思いません。その上でやはり大事だと思えることは、子どもの中に価値(よさ)が育っていることや自分たちで価値をつくり出せていることを教師(大人)がとらえて、言葉にして子どもに返すことです。

自分や社会や自然に価値を見出し、他者と共有できる価値を生み出す学習をしましょう。と言っても、また新しい学習をしようというわけではありません。ただ現に行っていることの中にその芽を見つけ取り出して、自覚的に展開してみませんかという提案です。このことはきびしい現実をしっかりみることと矛盾しないと思います。