エッセイ 「命の教育について」 滝沢利直(教育を哲学する研究会)
私は、「命の教育」について、この間いろいろと考えてきた。このテーマにある種の親和性を感じてきた。私自身、最近最愛の家族を亡くし、当事者として命の問題を突き付けられてきた。だから頑ななまでの強度と狭隘なる視圏で考察してきたということも否定しない。
自らの余命をかけて「命の教育」を実践した先生方からの勇気あるメッセージや深い哀しみの告白に私は力をいただいた。余命わずかのある養護の先生は、乳癌治療のただ中で中学生たちに命の尊さを伝えた。そのことを通して彼等に、友人に「死ね!」と放言したりなど、他者の存在(命の尊厳)を損なう行為の問題性を深く考えさせるきっかけを与えた。また、末期の胃癌治療の中で、校長として子どもたちに「命のリレー」の意味を考えさせる授業を自ら行った先生もいた。この教育実践が死への恐怖の裏返しであると表白しながらも子どもたちに正対していた。その授業記録の映像を見ながら私は深い感銘を受けた。こうした先生方の命を賭けた授業、最期の時まで必至で生き抜く姿を通して、人間の尊い姿勢を学ぶことができると思った。そしてここにこそ教育の原点が内包されていると感じ、ここから教育の本質を観取できると考えてきた。
だが、その「命の教育」の実践に対して疑問を感じる方々や、どのように評価したらよいのかと違和感を抱く方々もいる。たとえば、子どもたちには重篤な病気や死という問題は重すぎると思う、とか、子どもにほんとうにその教育が必要だろうかという意見である。
これは難しい問いだと私は思う。「命の教育」は、人間の存在の一回性と尊厳性の意味への問いが中心になっている。このテーマについて私はいろいろ考えてきたわけだが、最近はちょっとその考え方が変わってきたようにも思う。たしかに死は不連続であり、単独性と代替不可能性として捉えられる。そしてそのことへの了解は、本来的な人間の生き方=かけがえのないたった一つの命を、よりよく生き、大切にしようとする思い=を喚起する可能性を持つ。しかし、果たしてそれが「教育」の唯一の核なのだろうか。むしろ、他人と関わりながら自分の希望や願いを実現していくという生き方を核に据え、そこに視点を向けていかない限り、生の肯定感を育む教育には繋がっていかないのではないか。そんな思いを抱きはじめてきたのだ。
人はときに、不遇に見舞われ孤独に突き落とされ、前に進めず自閉的になり、人との繋がりを拒絶してしまうことがある。しかし、いわば否定的なこの虚無から、生の肯定的な側面を見出し、希望を見出していけるように内面を徐々に変容させていくこと。これが大切だと思うようになってきた。他人と語り合い、悲しみや葛藤を受け止めてもらう。それと同時に、自分なりに考え直し、新たなものの見方をもつ機会を得ていく。それは「合理的」な思考を意識した生活世界の再生と構築につながる。ここでいう「合理的」とは、「どのように自分は手段を選択するか」「どのように社会に関わっていくか」という方法を具体的に考案・探究することだ。よく考えてみると、たとえ死の終局性を突き付けられたとしても、人間はその不安を乗り越え、心に希望の灯を取り戻し、日常の平安を回復することを希求しているのだ。そうした往還の過程を生きている。そして、社会や人と共に「よきもの」を求め、それを実現する方法と手段を具体的に考案しあっていくことは、その往還を生き抜く力につながっていく。
この感度で、「命の教育」を考えていくことに意義があると感じている。「命の教育」が道徳的な心の教育になってしまうことには慎重でありたい。ただ「命は大切」というように徳目化された理念が、一人ひとりの児童や生徒に対して、具体的な問いを封じ、「共感できない」という違和感(本音)を封じてしまうこともあるからだ。また、或る種の停滞から歩み出して具体的なその都度の問いと今後の歩み出しへの選択をすることが教育には大切だと思う。それが封じられるのは好ましくないと思う。もちろん「命」の尊厳や一回性を考える必要がないということではない。他人や社会とつながっていくこと・伝え合うことの中にこそ命の意義がある(生きる喜びがある)という見方につなげていくことが大事だといいたいのだ。生活世界に生起してくる様々な問いの切実さとかけがえのなさをできる限りありのまままっすぐに受けとめ、その感じ方や考えを伝え合うことが教育においては大切なのではないか。
教育の基盤には自立して生きる力を養うというテーマがある。そしてそこには、死に基底されつつも、孤独や不安の予期せぬ経験の中にあっても、生活世界で主体的に生き続けようとする力が枢要な要素として含まれていることへの気づきが大切なのではないか。繋がりとか未来とか、命のバトンタッチという「人間関係の創造」について考えることは、教育の大切な観点でもある。「命の教育」をこのように位置づけることは、私たちの見方を深め拡げてくれると思う。また、人との繋がり、とか、共に考え抜くということがどういうことなのか、改めて見つめ直していくきっかけにもなると思う。