第一回 教育を哲学する 教育が哲学になる
西
「教育を哲学する」というこの研究会は、哲学仲間で教育学者の滝沢利直さんと、神奈川県の公立高校で社会科の先生、校長先生を長く務めてこられた前田先生のところに遊びに行って、いろいろおしゃべりしていたのが始まりです。前田先生は、哲学にもずっと関心をもっていて、先生方の研修会に講師として呼んでいただいたのがきっかけで、もう20年近くのお付き合いとなります。で、そこに僕のHPの管理人で、仕事としては教科書の編集を長くしていた犬端さんを呼んでみたところ……
犬端
この教哲研での話がとてもおもしろいので、いろんな人たちに読んでもらいたいなと思うようになり、こうした運びになりました。よろしくお願いします。
西
そもそも「教育を哲学する」ことが、いままさに必要なんじゃないかと考えるようになったのは、こんなことからです。
お子さんをもっている方たちは、みんな教育は大事だと思っているでしょうし、先生方は先生としての立場で日々教育のことを考えておられるはずですよね。
でも、教育の中で、何がいちばん大切にされなくてはいけないのか、どこをめざしていけばいいのかということは、いつの間にかよく見えなくなってしまい、そのまま親も教師も漂流しているように、ぼくは感じています。
たとえば子どもたちは、いい成績をとって有名大学に入ることができれば就職に有利だということは知っていても、学びということが、本当の意味で自分の生き方を支えるものであり、大切な何かにつながっているのだ、と実感できる場面をあまりもてなくなってしまっているんじゃないか。
ある公立高校の進学校で国語を教えている先生から聞いたことなんですが、生徒たちはちゃんと勉強はするけれども、勉強は手段にしかすぎない、と思っている。つまり、学ぶことが自分が「よく」生きていくことや、さらには「みんなとともに」よく生きていくことを支えてくれる、本当に大切なものだとはまったく思っていない、というのです。教育学の佐藤学さんや哲学者の内田樹さんが「学びからの逃走」ということをおっしゃっていますが、まさにその通りで、成績がよくない生徒たちが「学びなど意味がない」と言って学びから逃走するだけではなくて、成績のよい生徒たちも、ある意味では、学びから逃走しているわけです。
親たちもみんな子どもの幸せを願ってはいても、それではその幸せの内実や、幸せになるために必要なことはどんなもので、そのために教育が担うべきものはなんなのか、ということへの考えをはっきりもっているわけではない。先生たちも、ひょっとしたらそうかもしれない。
でも、そうした教育をめぐる現状があるからといって、「教育の目的はこれです」「これが学びの中でいちばん大事なことです」ということを独断的に決めつけてしまうのはよくない。その目的が時の政権によって決められて、政権が変わるとフラフラ動くようだとなおさらよくない。私たちの一人ひとりが、それぞれ学びを経験してきた過去を持っているわけですし、その実体験から「こういうことが大切だよね」というエッセンシャルなものを取り出して、共有していくことが可能なはずではないか。またそういうことができないと、ニーチェがニヒリズムといいましたが、教育という場面で、親も教員も自分のやっていることや方針に確信が持てないままになってしまう。
そんなことがあって、「教育を哲学する」研究会を始めてみようと思いました。そして滝沢さんや前田さんと、かなり濃密な語り合いの時間を重ねてきて、そこに犬端さんが加わってくださったというわけです。
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西
教育の話に入るまえに、そもそも「哲学する」とはどういうことか、について、ぼくの考えを言ってみたいと思います。
哲学というのは、もともとは古代ギリシアで起こった「議論する営み」です。その特徴を、なるべく簡潔に言ってみます。例えば、いまここに四人でテーブルについて話をしているわけですが、まずは、発言者が対等でなくてはいけない。権威ある人のいうことがそのまま正しいことになってしまってはダメですね。宗教の場ですと、その教えを深く理解していると考えられている人(僧侶など)の話をありがたく聴いて受け取る、ということになりますが、哲学では年齢も関係なくまったく対等でなくてはならない。
次に、他人の言うことをきちんと受け取ること、ですね。自分とは意見が違ったりしても、ともかく最後までその人の話を聴く。そして、よく理解できないところがあったら尋ねてみる。「これは~ということですか」「ようするに……ということと理解していいですか」というふうに。そうやって互いの意見をていねいに受け取り合うのがまず大切です。しかしそれで終わりではなく、それぞれの意見の説得力を議論し、吟味していく。そうやっていくなかで、「これは納得できるね」と皆が思える考えを育てていく。キーワードでいうと、〈普遍性=だれもが納得できる〉と〈原理性=根っこから考えられている〉とを備えた考えを、議論のなかで育てていこうとするのが、哲学です。
そういうことを、古代ギリシアの哲学(フィロソフィア、愛知)はめざしていた。日本では意外に知られていないのですが、自然科学もこのようなフィロソフィアから出てきたものですね。普遍性と原理性の追求というふうに考えれば、科学は哲学の一種だということはすぐわかります。
しかし自然科学とは違った種類のテーマとして、正義や美などの価値(よさ)に関する議論も哲学では行われてきました。そのなかから、〈本質〉を取り出そうとする思考が生まれてきます。ソクラテスとプラトンのことです。
しかしこの〈本質〉という言葉は、現象学を除く20世紀のほとんどの哲学がそれを否定してきました。「正義の本質とか幸福の本質などというあらかじめ決まったものがあるわけがないだろう」という、本質が存在することへの疑いもありましたし、「正義の本質などというものを押しつけられたらたまらん」という、唯一絶対なものを強制されることへの反発も、この、本質否定のなかに含まれていたわけです。
しかしぼくは、〈本質〉を取り出す思考を復権しないかぎり、哲学はその力を発揮しないと考えています。ですから、古代ギリシアで本質を求める思考がどうやって出てきたか、ということを、まず今回は、お話してみたいと思います。
●自然哲学者たち
古代ギリシアでは、まずは、自然哲学者と呼ばれる一群の人たちが出てきました。哲学の始祖とされているタレスもその一人です。彼は伝説や神話に頼らず、自分の頭だけで「万物は何からできているんだろう?」と考えた。そして、それは「水」なんじゃないか、と言ってみた。「水があらゆる命を養っているわけだから、水こそが万物のおおもと(アルケー)だと言えるんじゃないか」とタレスは考えたのだろう、という説がありますが、記録がないので実際はよくわかりません。
すると次に、タレスの弟子のアナクシマンドロスという人が出てくる。そして、師匠のいうことはわかるけれども、「水」とは言いきれないんじゃないだろうか、と思う。それに「土」とか「火」とも言い切れない。だったら、水とも土とも火とも言えないような、「限定されないもの」(無限定なもの、ト・アペイロン)があって、それが具体的なものに姿を変えていると考えたほうがいいんじゃないか、などと言い出す。この人はとても頭のいい人で、水や火という具体物ではなくて、それらの「メタレベル」にあるものを考えたわけです。
でも、次にアナクシマンドロスの弟子でアナクシメネスという人が出てきて、また師匠に逆らう。哲学の歴史というのは、師匠に逆らう歴史みたいなものです。権威ではなく、説得力だけを大事にするので、お師匠さんを尊敬していても、「でもやはりここは違うのでは」というふうにして、より説得力のあると思える考えを打ち出そうとするのです。
それで、アナクシメネスはこう考えた。師匠のように「無限定なもの」なんて言い方をしたら、何が何だかわからなくなってしまう。もっと具体的なものから万物のおおもとを考えてみたほうがいい。そう考えると、「空気」は結構いけるんじゃないか。空気がぎゅっと圧縮されると液体になって、さらに固体になったりする、と考えたらどうか、と。
そのあとも、原子論に至るまでさまざまなアイデアが出てきます。でも現代のような科学技術がなく、電子顕微鏡もないわけですから、「追試」をすることができない。実験と観察によってだれもが確かめる(追試する)ことができる、というのが近代科学の強みなのですが、古代の自然哲学にはそれがないために、「だれもが納得する考え」には至りませんでした。
それから、自然哲学とはちがって、はっきりと人の生き方と価値とを問おうとする哲学が出てくる。前五世紀にソクラテスが、前四世紀にはその弟子プラトンが活躍します。権威ではなく説得力だけを頼りにする、という基本線を受け取りながら、ソクラテスとプラトンがそれまでの哲学と大きく違っていたのは、世界のおおもと(究極原因)を考えるのではなくて、「人の生き方」を考えようとしたところです。いわゆる哲学らしい哲学は、ここから始まったと言えます。
ぼくはこのところ、「魂の世話」という言葉をよく使うのですが、これは『ソクラテスの弁明』に出てくる言葉です。「自己への配慮」という訳語もあるのですが、「魂の世話」という語感が好きなので、こちらを使うことにしているのですが。それはともかく、ソクラテスはアテネの市民たちに向かってこんなふうに言った。--人にとって健康は大事だし、お金のことも重要だ。でも、何より一番大切なのは、自分の魂がよいものになるよう配慮することじゃないか。魂をよいものにするために自分の魂を世話すべきではないか、と。
このように、ソクラテスとプラトンのめざす哲学を一言でいえば、この「魂を世話すること」になると思います。ですが、魂を「よく」する、というときの「よさ」。これは何か、ということが問題になります。ソクラテスは、対話のなかでこれを考えようとした。
たとえばソクラテスがアテネの街をプラプラと歩いていると、若者が寄ってきて、「本当の友情って何ですか」と質問を投げかけてくる。するとソクラテスは、「まず、君の考える友情とは何か、それを聞かせてくれないか」と逆に問いかける。若者があれこれ考えを出してくると、ソクラテスはそのつどいろんな突っ込みを入れる。しかし自分では絶対に答えを出そうとはしない。彼は若者たちから敬愛されているわけですから、自分が答えを言ってしまったら、皆がそれを信じ込んでしまうかもしれない。それでは哲学になりませんから、だから、ソクラテスは答えを与えることはしなかったのだと思います。
ともあれ、こんなふうにして対話しながら、何が友情の核心にある大切なことなのか、を確かめようとするのです。ほかにもよく取り上げられるテーマは「勇気」「思慮」「正義」「節制」などですが、これらは後に「四元徳」と呼ばれるようになります。このようにソクラテスの対話の中心テーマは「徳」なのです。
この「徳」は卓越性などとも訳される言葉ですが、今ふうにいえば、生き方上の「価値」といっていい。ぼくたちが生きるうえで、何が大切な価値といえるのか、それを語り合って確かめる。そして、それがはっきりつかめると、わくわくしてくる。「そうだよ、ほんとにそうだよ!」というふうに。そして、それに向かって一生懸命に生きようとする気持ちになる。プラトンは、人がイデア(真実在=ほんとうの勇気やほんとうの正義)に憧れるようすを、羽が生えてくると形容しています(『パイドロス』)。
重苦しかった魂に羽が生えてきて生き生きしてくるような、そんな価値あることを、対話によって確かめ合っていく。それこそがソクラテスとプラトンの考えた哲学でした。ぼくはいま、そういう営みとしての哲学を、この社会で蘇らせたいのです。
●「本質」を問う思考
では、どうやって価値あることを対話によって確かめ合うことができるか。プラトンの作品に『メノン』というものがあります。竹田青嗣さんも『プラトン入門』(ちくま新書)でとりあげている重要な作品ですが、その冒頭ではこんな話が出てきます。
メノンにソクラテスが「徳とは何だと思うかね」と尋ねる。するとメノンは言う。「それは別に難しくないですよ。男の徳は国事をよく処理し、友を利して敵を威圧することであり、女の徳は家をよくととのえ、夫に服従することである。さらに、子どもには子どもの徳があり、召使いには召使いの徳がある」と。
するとそれに対してソクラテスは、言うのです。――君が挙げているのはいろんな実例にすぎない。自分が問うているのは、個々の徳ではなくて『徳とは何か』ということだ。さまざまな徳とされるもののなかの『共通して変わらないもの』を見つけだすことが必要ではないか、と。
さまざまな実例に「共通」していて、それらがまさしく徳と呼ばれることの「根拠」となっていること。これを上手に言葉にして言ってみよ。このようにソクラテスは求めているのです。この、もろもろの実例に共通している根拠、のことが、後の時代に「本質」と呼ばれることになります。これについて、この『メノン』の最後のほうで興味深いことが言われています。――偉大な政治家ペリクレスは徳ある人であったが、自分の子どもを徳ある人にすることはできなかった。なぜなら、ペリクレスは徳を「思わく」(ドクサ)として、つまり直観的な仕方ではわかっていたが、きちんとその根拠を言葉でつかんでいたわけではなかったからだ。「思わくを、原因(根拠)の思考によって縛り付ける」(98A)必要がある。そうすれば、それは「知識」(エピステーマイ)となり、永続的なものとなる、と。
つまり、なんとなくわかっているだけではダメで、それらが「よいもの」であることの「根拠」をハッキリと確かめ知る、つまり、本質をつかむ。そうすることで、その「よさ」に向かってまっすぐ生きていくことができる。このようにして、「本質」を問い求める思考は「魂の世話」と直結しているのです。
ソクラテスとプラトンがこのような本質を問い求める哲学をつくりだした背景には、ニヒリズムやシニシズムに対抗するため、という面があります。ギリシアのポリスたちが協力してペルシア戦争に勝ったあと、アテネはギリシアのポリスの連合であるデロス同盟の長となって富み栄えます。すると、金さえあれば世の中をうまく渡っていける、という風潮も出てくる。質実剛健な戦士の徳とか、家庭をよく守る妻の徳とかのような古(いにしえ)の徳も怪しくなってしまう。さらに、スパルタとの何年にもわたる戦争で殺し合いが続き、とうとうアテネはスパルタの息のかかった人間が支配するようにもなる。何が大切なのか、はますますわからなくなる。
ソクラテスとプラトンの時代は、このように、生きることの柱がよくわからなくなった時代でした。お金も大事だし、出世もしたいが、でも、自分がほんとうに生きていくことの柱にできるような大事なものがよくわからない。そう感じた若者たちのなかに若き日のプラトンも混じっていたわけですが、そんな若者たちがソクラテスのもとに集まってきた。そういう若者たちとともに、ソクラテスは、さまざまな「よさ」――正義や勇気や思慮や――について、それらの「根拠」、つまりは本質を問い求める思考を発展させていったのでしょう。
●現象学という方法
犬端
そうした、ニヒリズムを超え、みんなが実感をもって「本当」と思えるものを見出し、共有していくための思考の原理を見出したい、という心根は、西さんがずっと取り組んできた現象学や、近代哲学にも基本線として受け継がれているものですよね。
西
そうですね。ソクラテス、プラトンの「初発の思い」を近代になって復活させようとしたのが、フッサールの現象学だとぼくは思っています。
プラトンは、「みんなで確かめ合うことができる、ものごとのいちばん核心にあるもの」を「イデア」という言葉で呼んだ。『パイドロス』では、物語だと断りつつも、この「イデア」は天上にある真実在(真に存在するもの)で永遠不変なものだ、と語っています。すると、「そんなものはあるのか?」と真っ先に弟子のアリストテレスから批判されてしまった。
しかしプラトンの作品をていねいに読んでみると、イデアとは「知性」のみが知りうるものであることが『パイドロス』では語られ、また、それぞれのイデアの「よさ」を探究しなくてはならない、ということが『国家』では強調されています。つまり実質的には、「対話によってみんなで確かめ合っていく」プロセスが、何よりも大切にされているといえるのではないかと、ぼくは思っています。しかしやはり問題なのは、探究すべきものの答えが、あらかじめ天上にあるかのように語られていることですね。正解があるのだったら、探究する気持ちがなくなってしまうかもしれません。反発する人たちが出てくるのもわかります。
あらかじめ存在する正解、ということではない仕方で、〈本質〉という思考を復権させようとしたのが、フッサール現象学の大きなモチーフだったとぼくは考えています。お互いの体験を出し合いながら、「これは、みんながナルホドと思えるエッセンシャルなことだ」「それぞれの人のさまざまな具体的な体験に共通していて、核心をなしているものだ」ということを取り出していく。このようにして「本質」を取り出すことこそが哲学のいちばんの課題なのだということを、20世紀において、明確に主張したのがフッサールなんです。
フッサールが本質について語るときには、もっぱら「事物を知覚する」という場面でもってその実例を示しました。事物知覚にはどんな人にでも共通する構造がある、ということです。まず一つには「前は見えるけれど、後ろは見えない」。それでは「見えない後ろはまったくない」と思っているかというと、そんなことはない。いま、ぼくはここで白いコーヒーカップを見ていますけれども、後ろもまず間違いなく表と同じで真っ白だろうと信じています。そういうふうにして、事物知覚は「事物そのものを端的にそのまま受けとっている」という感触を伴っていますが、子細にその体験を反省してみると、じつは「直接に目に見えている一部分をもとにして、その裏がどうなっているかを一定の範囲内で想定している」ということがいえる。ある意味で、知覚は事物像を「創って」いるわけです。
このように、体験に共通する構造のことを、フッサールは「本質」と呼びます。もっともフッサールは、事物知覚と認識のことばかり言っていて色気がないんですが(笑)、要するにやろうとしていたのは、「さまざまな人の諸体験を突き合わせながら、共通構造を取り出していく」ことなんですよね。この本質を取り出すこと(本質観取)が、現象学の方法の核心といえるものです。
犬端
「事物知覚」という、もっともシンプルで、色気はないが人とのズレも少ない場面を通して、まず、現象学の基本である「誰しもに共通するものごとの確かめの仕組み」を、みんなで確認しやすりように取り出したのかな、とも思いますが……それは、価値的な対象についても生かしていけるものだし、むしろ、そこで生かされてこそ意義が出てくるように思います。そこで求められているのは、一義的な真理、究極原因というよりも、共有可能なものを互いに積み上げていく営みなわけですから。
西
そうですよね。犬端さんがとても正確に言ってくださいましたが、そこがとても大切なところです。あらかじめ存在する一義的な真理を発見するという「真理発見モデル」ではなく――プラトンではそうなりかねないところがあります――「共有可能なもの」を対話によって積み上げていく。まずは、自分自身の体験をていねいに見つめ直していくことを通して、「こういうことなんじゃないか」ということを取り出します。次に、それが本当に共有可能かどうかを、他の人たちも、やはり各自の体験に照らし合わせながら、確かめなおしてみる。その中で「確かにこれは言えている」ということが確認できたり、場合によっては、「でも、こういうふうに言ったほうがよりぴったりするんじゃないか」ということが出てきたりもする。で、それを出して、また各人が自分の体験に照らし合わせてみる。そのようにして、より的確な言い方に作りかえていくことができるようになるわけです。
実験と観察と数学の方法によって、自然科学は共有可能性を作り出したわけですが、「価値」について共有可能なものをつくりだすには、それぞれの人が確かめ合いつつ、これがエッセンシャルなものだよね、という「本質」を取り出していく方法しかない。そのようにして共有可能でじっさいに対話し確かめていける哲学を、フッサールが現象学として打ち出した。ですから、当時の若い人たちも期待をもってそれを受け止め、いろんなテーマを現象学的に探究しようとする流れが生まれた。例えば正義や権利、美的体験、数学の認識などのようなテーマを現象学的に考えてみよう、というような。でも、その流れは、現象学のカナメとなる発想が正しく受け継がれなかったため、いったんは断ち切られてしまった。
犬端
愛弟子だったはずのハイデガーにしても、自分自身の生の現場=実存からものごとを一から確かめおしていく発想は受け継ぎながらも、「存在」という、彼にとっての究極真理のようなものを受け取る手段のようにされてしまったわけですよね。あらかじめの真理、もともとの客観世界への信憑を、人々が当たり前に持つことができなくなった時代状況のもとで、共通了解を築き合っていくための足場をつくろうとしていた師匠のモチーフは理解されなかった。
西
ほんとうにそうですね。ハイデガーの『存在と時間』をみると、優れた本質観取の実例に至るところで出会うことができます。でも、共通了解をどうつくるか、ということよりも、「存在の真理を思考する」ことこそが哲学だ、というのがハイデガーの哲学観ですね。ハイデガーはやはり、究極真理を求める思考になってしまっている。でもハイデガーがあまりにも優れていたために、フッサールの「ほんとうに共有できるものをつみあげよう」という哲学観はいったん廃れてしまったわけです。これを復権しよう、というのが竹田青嗣さんとぼくの大きなモチーフでしたし、それは、ソクラテスとプラトンの、「これが本当にいいよね」というものを確かめ合い、そこに向かって魂をわくわくさせて生きていく、という、哲学の本義を現代に復活させることだ、と思ってきました。
●でも、本質の思考はほんとうに可能なのか?
日本では、1980年代半ばころから、みんなが「ひとそれぞれだよ」みたいにして生きていて語り合うこともあまりなく、何が正しくて大切なものなのかがわからない。そういう状態が続いてきました。それだと元気がなくなってしまいますから、現代では、「このままではいけない、みんなで語り合ってみようよ」という動きが生まれてきています。哲学カフェなどの試みもありますね。
しかし、それぞれがそれぞれの思いを語る、というところで終わってしまうことが多いのではないか。それぞれの思いや想いを最後まできちんと聴くこと、これは大切です。互いの思いがわかるだけでも、うれしさや発見がありますから。しかし、たとえば幸福とか正義などのテーマについて、だれもが心から納得できる共通理解がなりたつか?と問われれば、いま日本社会に生きているほとんどの人が「それは無理じゃないの」と答えるでしょう。
それに、「幸福や正義の本質などということを言われたらたまらん」という人もいるかもしれない。真の唯一の幸福、などというものを他人から言われたくないですね。幸福は自分で見つけるものでしょうから。それに、唯一の正義はこれだ、といって迫ってくる人がいたら、これは危険ですね。
しかし、幸福や正義の本質を語ることがまったくできないとしたら、「魂の世話」もできないことになってしまう。哲学は滅んでしまいます。
ここであらためて、「本質」に対して寄せられてきた批判や疑いを整理してみます。
①後期のプラトンは、正義や勇気などの本質は、現実を超えたところ(彼岸)に永遠不変な真実在としてある、と言い、それを「イデア」と呼んだ。しかし、そんなものがどこにある?という反論が、弟子のアリストテレスからニーチェまでずっと有り続けている。
②近代や現代に至るまで、哲学者たちの正義論や認識論や美論はさまざまで、意見が対立してきた。結局はそれぞれの考えがあるだけで、哲学には「正解」などないのだ、というふうにも思えてくる。
③「本質」を立てると、自由な思考と行為を抑圧する。また個々の具体的な体験の豊かさも抑圧されてしまう。「これこそ真の正義だ」などと言って迫ってくる者たちこそが悪だ。(20Cのポスト・モダンの哲学など)
このように「本質」についてはさまざまに批判されてきたわけですが、では、フッサールはどのようにして、本質の思考を復興しようとしたか、ということになります。その点をあらためて補足しておきたいと思います。
フッサールの〈現象学 phenomenology〉の方法のいちばんのポイントは、あくまでも「自分自身の主観的な具体的な体験」から出発して考える、ということです。つまり、自分自身がじっさいに物事や事柄(正義や幸福や美など)をどう体験しているか、と問うのです。正義や美は自分の体験に現れて(=現象して)きますから、その体験ないし現象じたいに問いかけていく。
これは言い換えると、客観的(第三者的)にどうであるか、は問わない、ということです。美的な体験のときに脳がどうなっているか、は問題にしない。さらに、さまざまな学説があるとしても、脇においておく。
さらにここが大切ですが、「あらかじめ存在する本質や理想」(イデア)を想定しない、ということです。真の自由、真の幸福、真の正義とは何か、と問うと、必ず意見の対立が起きます。ないしは、それぞれの人がそれぞれの信条を語るだけになる。それでもって議論はストップしてしまうでしょう。
このやり方を変えなくてはいけない。つまり、「唯一の真の自由」を探すのではなく、私たちはどんなふうに自由を体験しているのか、と問うてみる。すると、やらなくてはならないことが終わったときの解放感(義務からの解放)とか、テニスが上達していろんなことが「できる」ようになるときのうれしさ(できないことができるようになる、コントロール力の増大)などが取り出せるでしょう。このように、どんなときに自由だと私たちは実感するのか、というふうに私たちの「体験」に向かって問いかけるならば、そこからは、自分の体験にも他人の体験にも共通するいくつかの答え(共通理解)が取り出せます。
幸福でも同じです。唯一の真の幸福を求めるのではなく――そうするとやはり、いろんな人の信条が出されるだけで、決してまとまることはないでしょう――「どんなときに人は幸福だと自分のことを呼ぶのか」と問うてみる。すると、幸福だと人が感じる体験はまったくバラバラではなく、いくつかの種類に分かれることがわかります。たとえば、「親しい人が自分のことを大切だと思っていることが実感できたとき」というのは、多くの人たちの幸福体験に共通するでしょう。もちろんこれが唯一ではありませんが。
このように、互いの体験を出し合って、そこに共通するものをていねいに言葉でもって取りだしていく作業が、〈本質観取〉(形相的還元ともいう)ということになります。
●現象学の方法、あらためてのまとめ
まとめておきます。まずは、客観的な視点をとらず、主観的な具体的な意識体験の現場(現象)に立ち戻る。これを〈現象学的還元〉と呼びます。そのうえで、求めるテーマ(自由・正義など)に関する具体的な体験の実例をさまざまに挙げる。互いの体験を語り合い、場合によっては、それらにいくつかの種類(ちがい)があることに気づきます。そのときにはそれぞれの種類にふさわしい名前をつけてみる。テーマが自由でしたら、「義務からの解放の自由」「〈できる〉ようになる自由」「他人から介入されず自分で行う権限があること」等々、の種類が挙げられるでしょう。
しかしまた、それらすべてが自由と呼ばれる理由は何か、についても、考えることができます。すると、すべての体験例に「なんらかの拘束からの解放」という要素が含まれていることも見えてきます。――このようにして、自由についての具体的な体験のさまざまな実例に則して、それらのいくつかの種類や、それらの共通性について深く考えていくことができます。このようにして〈本質観取〉を進めていくことができるわけです。
こうした具体的なやり方については、フッサールは語ってくれてはいません。ぼくは、さまざまな具体的な体験に即すること、諸体験の違い(種類)と共通性をきちんと見て取ること、を念頭におきながら、高校生やビジネスマンなどさまざま人たちとワークショップを積み重ねてきて20年くらいになります。そうしているうちに、実践的な本質観取のやり方のコツがだいぶ分かってきました。このことも近いうちに本にまとめたいと思っています。
それはともかく、このようなやり方でもって、幸福や自由などのテーマだけでなく、社会正義や教育の本質についても、考えていくことができます。社会正義や教育の本質について語り合い、考え、それを共有しようとする営みは、「私個人」の魂の世話を超えて、社会的に共有されることを目指します。各人の魂の世話でもあるが、「社会の世話」でもある。そのような営みになっていくでしょう。
この会では、そういうことを積み重ねてきました。その中身は、おいおい、このメンバーで語り合っていくことになると思います。読者の方からのご意見・ご批判をいただければうれしく思います。
犬端
で、その哲学を通して教育を見つめ直そうとする研究会なわけなのですが、前田先生がこの間、「『教育が哲学になる』という発想を持つことも大事じゃないか」ということをおっしゃり、それに興味をもっています。どういうことなのか教えていただきたいな、と思うのですが。
前田
自分自身の経験を振り返ってみるなかで、「ああ、教師をしていたな」と思える場面が幾つかあるんですよね。その一つとして、高校二年生の担任をしていたとき、夏休みにひとりひとり生徒を学校に呼んで、進路の相談をしたことが思い起こされるんです。
それは、まず「お前、何をやりたいの」と生徒に尋ねることからはじまるんですよね。そうすると、すごく明確に養護教諭になりたいと思っている子もいれば、まだ全然自分のしたいことが見つかっていない子もいる。そこからいろいろな話をしていくわけなんですが……。
それは、いろいろな場面であると思うんですね。教科の授業でもそうで、国語で文学作品を通して自分と向かい合う場面なんかはその典型ですが、ぼく自身は社会科、公民科を教えているなかで、そうした場面を意識的につくろうとしていました。
この「自己了解を促す」ということが、教育の、教師の大事な仕事だというトータルな、深い自覚を共有化していく必要があるんじゃないか。そうじゃないと、人によってやったりやらなかったりなど、偶然性にあまりにも左右されがちになってしまいますから。いま、あらためて腰をすえて、「自己了解を本気で促していこうよ」という教育のスタンスをしっかりとることが本当に重要なことだと感じていますし、それが「教育が哲学になる」という言葉にもつながることだと思います。
西
本当にそうですね。さきほど「魂の世話」がそもそも哲学の初発の動機としてある、ということを言ったわけですが、それは、いま前田先生の話にもあったように、どこか向こうにある真理を求めたり、単に客観的なメカニズムを知るという発想のもとでは得られない。自分の体験を振り返り、自分自身がどう考えているのかに気づくことによってしか得られないものですよね。
前田
そうですね。週に1時間そういう時間を設けるというより、教師がそうした発想を、ベースにしっかりもっていろんな場面で見守ったり働きかけたりいけばいいと思うんですね。
西
一人一人の先生が、「自己了解を促すことが、教育のものすごく大事な使命だ」ということを心の内に持っているということですね。
前田
そういうことだと思います。だけど、自分の経験でもそうですけど、ときに自分と向き合うことは大事なんですが、向き合いすぎてにっちもさっちもいかなくなってしまうようなことって、ありますよね。
自分と向き合いすぎてしまうと、逆に自己了解って難しくなる時がありますよね。そこに文学作品が介在しているとか、ここに社会科の教材が介在していくるとか、そんなことが必要になってくるとは思います。
西
何かのテーマを示して、それを考えてみるようにするとか。
前田
そうです。例えば、僕の方から今日考えたいテーマをあげることがありますが、それなりに生徒から意見も出ますね。「この授業は社会システムを理解し考える時間だけれども、同時に自己了解につながる時間でもある」という問題意識を教師自身が持てていれば、「生徒がこういうように自己了解しているな」ということを途中で確かめたり、気づきを促す言葉を投げかけたうえでまた次のテーマに進んでいったりすることができますよね。
滝沢
ぼくたちの教育学の現場では、よく二元論的な図式で知識を整理して伝えることがあります。例えば戦後から今日までの、教育論に関する二元論的な対立を学生に提示していく。その一つに「問題解決学習」か「系統学習」か、というのがあります。そうした二元論的な歴史的変遷を伝えるのは、それはそれで意味があるし、方法論的にも意味はあるんですが、でも「自己了解」という視点を立ててみると、そうした図式からはこぼれてしまうような本質的な部分が見えてくるような気がします。
若いころはじめて1年通して世界史の授業をやった時、(歴史は専門じゃないし)とにかく無我夢中で懸命に1年間やったんですね。今思い返してみると、歴史的意義っていうことをさかんに語っていた記憶があります。このことがあって、社会のありようがこう変わったとか(変わったようにみえて変わってなかったとか、変わったことでかえってひどくなってしまったようにみえるとか、いろいろありますが)この出来事が今に生きている我々にこう関係しているとか、要するに生徒にとってこの出来事を取り上げる意味を毎回考えてやっていました。
それは、授業論的に、教育方法論的にいえば、いろいろ反省すべき点があります。単純に言えば、教師が一方的に話している場面が多く、生徒に考え合う時間をあまり与えてなかったりする。でもね、形のうえでは生徒に考えさせる時間を十分とったつもりの授業より、なぜかその授業は、職員室まで来て活発に質問も出たりしていたんですね。質問待っている間に生徒どうしがああでもない、こうでもないと議論をするということもありました。
生徒に考えさせる授業とかいって、ただ「教えない授業」をやっただけで、本当に考え合うための工夫がなされなかっただけのことで、そういう工夫をすればいい、だけのことですけどね。とにかく、実質的に子どもに考えさせる場面をつくれるかどうかが大事なんだと思います。自分がこのようにしてあるのは、このように考えているのは、どうしてなんだと考える時間をつくることですね。
滝沢
たしかに、そうした授業って問題解決学習の形態論の次元からすれば問題視されてしまうのだろうけれども、主体的な関心、わくわくどきどきするような対象への憧れをつくることができているし、そこから「自己了解」につなげて考えようとすることが自然にできている。むしろ「問題解決学習」の本質的な部分を実現していますよね。
それはなにも歴史だけじゃなくても、数学にしても、どんな教科にしても同じですよね。どんな教育者も、授業者も、まず自分自身がわくわくどきどきしていないといけないし、限られた時間の中で教育をする際に、そこに勝負をかけていく必要がある。
前田
その通りだと思います。教師自身が歴史なら歴史の「おもしろさの本質」を、自己了解を通して取り出し、それを伝えようとする意識的な姿勢が求められると思います。
そうですよね。歴史の場合、そこに展開されている人間のドラマや、そのドラマを可能にする社会的な条件に目を向けさせることが非常に重要ですし、それはただ知識を得るというのではなく、世界と社会と、そこでの人間のあり方を理解する視点を与えてくれるものですよね。自分自身の体験を純粋に内省して考えることだけではなく、ある意味で「外側の視点」から、この私が生きている世界、他者とともに今を生きているこの世界を見つめなおしていく視点を得るきっかけにもなる。それはとても大事なことだとし、そこにおもしろさもありますよね。
前田先生が言ってくれたような授業を子どもたちが体験するのって、すごくいいと思うんですよ。なぜかというと、いま「知」や「学び」というものの価値が落ちてきた理由の一つには、大学進学率が上がって大卒の価値が下がってしまい、だからこそ、「勉学を修めて立身出世する」という明治以来の構図が崩れてしまったということがあります。しかしもう一つの理由として、情報技術の進展のなかで、情報が均質化され、平板化されてしまったことにもあるんじゃないかと思っているんです。何か疑問が出てくると、ネット上で簡単に情報が手に入る。多くの若い人たちにとって、知や学びは、自己了解につながるものではなくて、とても均質な「情報」として体感されていると感じることがあります。
でも、歴史を通して、一つ一つの出来事の背景にある人が生きてきたプロセスや、そのとき人々が置かれていた生活の条件や状況の厚みに出会っていくと、知の世界が平板な均質な「答え」ではない、ということを実感できるかもしれない。
さらにそこには、歴史をとらえようとしてきた人々の発想や視点との出会いもありますよね。例えば、中世を暗黒の時代として見ようとするのも、近代社会で人々が得た自由を焦点化しようとする一つの視点によるものですし。
先生自身が、そうした歴史を見る視点、歴史から新たな自己了解を得ていく体験の実例を示してくれるような授業って……たしかにおもしろかったですよね。そこから得られたものは大きいと思う。
そうですよね。一つの文章には、それを書いている人が必ずいる。どんな人にも思いがあって、それを書いている。歴史だって、たんなる知識ではなく、それをとらえた人の思い、語る人の思いがある。また、それに触発されて、こちらに気づかされるものがあったりもする。……当たり前のことに思えますが、いまそういう相互に「触発」されるという面が希薄になっているんじゃないかと思います。学生たちと接していると、情報や知をただ手段のように考えてしまっているケースが本当に多いですよ。
ですから、その情報や知の裏側に、生きている人の思いがあることに気づく機会、そうした思いに触れることが、自分自身の問題を考えることにつながっている。そう実感できる機会を得ていくことが、いまほんとうに大事だと思う。そうした発想と感度が持てれば、たとえネットで得た情報にしても、その背後には生きている人の思いや考えがあること気づくことができるだろうし、逆にそれが持てないと、文章を読み深めていくことそのものができなくなってしまうんじゃないか。そう感じています。
西さんが最初に言ったギリシア哲学の歴史にしてもそうだと思いますが、そこにあるのは知の継承だし、それを踏まえた知の生産なんだと思います。それはつまり、先人たちの問題解決を受け取り、それを自分自身の問題解決につなげていく、ということですよね。そういう発想をもつことが教育では大事だし、やはり哲学と重なるところなんじゃないかな、と思っています。
それに、そうした一つ一つの問題解決の背後には「自己了解」への動機があるのだと思いますし。そう考えると、「自己了解」って、自分自身がより納得して生きていくための契機というだけじゃなくて、他者と深いところから出会っていくための契機でもありますよね。そのプロセスがあるからこそ、価値的な側面での共有可能性を見出していくこともできるのだと思いますし。逆に哲学のほうも、そのことをちゃんと自覚しないとですよね。
「教育が哲学になる」という発想から出てくる射程って、本当に大きいですね。それを実感させていただきました……あ、ほんとにわくわくしてきますね。
西
ぼくもとてもおもしろかったです。教育における「自己了解」「問題解決」「知の継承」、これらはたしかに哲学の営みと本質的に通じているとあらためて思いました。しかし、この「自己了解」「問題解決」「知の継承」などがなぜ教育の本質といえるのか、という点に疑問をもつ方もおられると思います。次回はこの点を深めていければと思います。