第2回 「問題解決学習」ーその本質とは何か。
前田
最近考えているのは、問題解決学習をもっと広い視点に立ってとらえ直していくことが必要なんじゃないか、ということです。僕はこれまでも問題解決能力を養う学習は大事だと思ってきました。児童・生徒が自分で課題をみつける学習はすごく意味があるし、「総合的な学習の時間」だけでなく教科でもそういう学習を行うべきだと思っています。その意義を踏まえた上でなんですけど、課題を教師がはじめに提示して、それを生徒が自分の問題としてとらえ直すことができて、そこから主体的な学習が事実上始まるというのもありだと思うんですね。
そうでないと、悪い言い方だけれども、「真の問題解決学習とは何か」という神学論争(?)みたいになっちゃうと思うんですよ。これまで多くの問題解決的な学習が行われている授業をみてきました。確かにいい授業でした。そういう授業の大切さを理解した上で、そもそも問題解決とは何かを考える意味はあると思うんですよね。
滝沢
教育の歴史を振り返ってみると、戦前戦中の、皇国史観に基づく国家理念のもとに或る種系統的な知識やイデオロギーを教え込んだ時代から、戦後、米国の対日教育政策の一環として、デモクラシーというキーワードのもと、一人一人の子どもの経験を何より大事にしようとする、ジョン・デューイらの考え方に代表される問題解決学習が注目されるようになった。しかし、それに対して、学力低下を招いているという批判が出てきた。文部省からも組合系からも双方から出てきました。
また、その後特設の「道徳の時間」が設けられたのですが、それは戦前への回帰だ、修身教育を復活させるのか、という議論が出てくるようにもなった。問題解決学習の真意を道徳教育という観点から問うものだったと思います。自分の切実な問いに足場を据えて考えることに重きを置くようにしないと、権力者の意図に再び騙されてしまうようになるという危惧から、問題解決学習の意義を強く打ち出そうとした諸研究会などのグループもありました。そのことの意義は、決して否定できないと思います。
その後も「問題解決学習」の本質をめぐる議論は今日までつづいていると思います。系統学習の注入性を否定し、子どもたちの生の直接経験を主軸にした問題解決学習が大事だという批判があると思います。それに対して、そうした「経験主義」では、社会生活を送るための基礎・基本となる系統的な知識や、社会規範への意識を身に付けていくことができない、という批判が出されるようになりました。こうした「二項対立」の図式が、今日まで根強く残っている現状が教育現場にはありますよね。
犬端
僕自身が、問題解決学習という概念にコミットするようになったのは、小学校の社会科教科書をつくるようになってからのことです。社会科の授業研究に熱心に取り組んでいる先生方には、それがキーワードになっていることを知りました。
それから、読みかじったり、聞きかじったりなどしながら、その根幹にある発想が何かということを、まずとらえてみようとしてみました。すると、そこでのポイントは、自分自身の動機に寄り添いながらものごとと出会い、個々の生の現場にたってものごとのありかたを確かめてくこと、さらに、ひとりひとり確かめたことを土台に共有可能なものを築いていくこと、そうしたところにあるように感じられました。
自分に内在していた、哲学的な問題意識に引き付けてとらえてしまった部分も大きいとは思いますが、それこそ哲学の本質に重なり合う、可能性に満ちた発想をもっているように思えたんですよね。
でも、実際に「問題解決学習」という言葉が交わし合わされている場面に立ち会ってみると、今、滝沢さんが説明してくださった、二項対立の図式を背景に伴ってしまっている現状が見えてくるようにもなりました。多くの場合、「……ではなく、問題解決学習」という文脈で語られていたんですよね。「系統学習ではなく、問題解決学習」「教師主導ではなく、問題解決学習」というように。
滝沢
教科(学科)中心主義なのか、子ども中心主義なのか、ですとか、そういう対立的な枠組みのなかで語られてきたということは確かにあります。もちろんそうした議論は、真摯な思いのもとでなされてきたとは思っています。ただ、それが果たして実り豊かなものにつながってきたのかどうかということは難しい問いですが、考え直してみる必要があると思います。
前田
かつて教育センターというところに勤めていたとき、ちょうど「総合的な学習の時間」が始まったんですよね。所員はいろんな校種から来ていましたが、反応はさまざまでしたね。いよいよ始まるんだという人もいれば、学校現場はどう受け止めるかなあと考える人もいたように思います。で、僕はというと、自分自身でまず「総合的な学習」なるものを咀嚼してみる、ということから始めました。知の総合化かあ、総合化するのは生徒だよな、核心は生徒の主体的な学習、うーん主体的学習かあ、といった感じでした。
そんな中、僕は「総合的な学習とはいかなるものか」ということを、現場の先生方を前にして語る機会をいただいたわけですが、そのときまず、「みなさん、こうした学習はいままでもされてきましたよね」ということを言いました。
総合的な学習の時間が始まる。それは、今までの指導とは違う、こういうものだ…先生方は、そんな話を、それまでさんざん聞かされてきたと思うんです。そうではなくて、「生徒の自発的な学習を促すような指導はこれまでだってされてきましたよね」と言ったんです。
そのとき「ほう……」という反応をしてくれた先生が何人かいました。(別に「ほう」という声をあげたわけではないですけど。)
滝沢
「ほう……」というのは、どんな感じですか。
前田
まず、「意外なこと(変なこと?)を言い始めたな」という感じですかね。それで、顔を上げてくれた。ちょっと聞いてもいいかなってところですかね。そして、「生徒の問題意識を喚起して、主体性を促すような学習は、今までだってしてきたわけですよね。それを思い出してみてください。それを、自覚的に取り出してみましょう」と投げかけてみたんです。
別に奇を衒おうとしたわけではありません。たとえずっとではなくても、折々取り組んでいたこと、その中で手ごたえを感じた経験を振り返ってみたうえで、「ああ、あれはそういうことだったんだ」というように、そこにある本質をつかみ取っていく。そこから出発できたら。そう思ったんですよね。
滝沢
いまおっしゃったような形で、学習指導要領の翻訳がなされ、伝えられたという話を、僕はあまり聞いたことがありません。
前田
そういういい方はあまりされてなかったかもしれませんね。
滝沢
生活科や総合的な学習の時間が始まったとき、今までと違う、まったく新たなものが始まる。それはかつてなかった、問題解決学習の理念を具現化するものだ……そんな前提を立てたうえで伝えられていたことが多かったように思います。
でも、そうではない。今までにもそうした発想に基づいた実践はなされてきた。その共通本質を取り出し、自覚化し、大切にしていくことこそが大事だ。そうすればよいものができていきますよ……という伝え方を、前田先生はしたわけですよね。だからこそそれを聞いた先生方も、自分自身とのつながりを感じ、それこそ自分自身の問題意識を触発され、自然に顔を上げるようになったんじゃないでしょうか。
前田
あのとき、顔を上げてくれた先生方の顔は、そういうことを語ってくれていたかもしれません。ちょっと話を美化しているか(笑)
犬端
「教育の本質」という観点から考えると、いろいろな場面を通してそれをとらえ、いろいろな形を通してそれを具現化しようとしながら、実践に取り組まれてきた先生方がたくさんおられるわけですよね。
前田
(先ほど滝沢先生が言われたように、「問題解決学習」そのものは戦後民主主義を背景に日本で注目されるようになってきたわけですが、)広い視野に立ってみると、江戸時代の教育だって、明治時代、昭和初期だって、教育の本質を吟味し、それに基づいた実践に取り組もうとする営みは必ずあったと思うんですよ。
物事を単純化しすぎると、その連綿と続いてきた営みが見えなくなってしまうんじゃないか。物事の多層性をとらえる(あるいは多面的・多角的にとらえる)視点をもつのが、本質をともに考え合っていく営みを進めていくうえで重要なことだと思っています。
滝沢
教育史などでは、二項対立の図式を当てはめると鮮やかに整理ができるのだけれども、そうではない、むしろ真摯な名もなき教師たちの連綿とした営みの中に、本質的な教育をめざそうとする共通の問題意識が見出されるのではないかと……
前田
そういう営みをくみ取ったうえで前に進んでいきたい、という思いが自分の中にはありますね。
西
前田先生がおっしゃっておられるのは、とても大切なことですね。これが「新しい」教育だ、というようなことが言われ、先生方もそれにキャッチ・アップしようとする、というのはよくある風景ですが、じつは大切な本質的なことは、これまで自分たちがやっていたことのなかにあるのかもしれない。それをよく自覚することができれば、それをさらに伸ばし展開するいろんな工夫も見えてくる。そう考えると、先生方もずっとラクになる。
ちょっと言い方を変えると、二項対立的な「こうでなければダメだ」という発想から自由になる、ということでもあります。本質の思考というのは、「この大事なエッセンスさえ押さえれば、それを生かすかたちはさまざまであってよい」という発想なので、じつは教員各自の創意工夫を励ますものになりうる、ということだと思うんです。
●「問題」はどうやって見出されていくか
前田
そもそも問題って何か、(認識の問題として)いつ問題になるのか。自分にとって問題であっても他者にとっては問題とはならないこともある。その逆もある。NPOとか会社が「問題解決」に取り組んでいるというとき、その場合の問題解決は問題解決学習でいう問題解決とどう違っていて、何が共通しているのかを考えるのも意味があるんじゃないかと思うんです。単にそれは、環境問題や貧困問題といった社会問題の解決とかビジネスの世界の話で、学校の学習とは違うと言ってしまわないで、学ぶことができるんじゃないかと思う。
先日テレビドキュメントで、「嵐」のことを取り上げているのを見たんですよね。メンバーの松本潤がライブで演出担当をしているんですが、彼の仕事が、問題解決仕事なんですよ。
どんな登場をすれば効果的か、照明や曲順はどうするかなと、スタッフやメンバーと何度も相談していく。彼の根にあるのはライブに来てくれるお客さんを喜ばせることなんですね。その問題意識を明確にもったうえで、他のメンバーをそこに巻き込みながら、(納得できるステージが実現できるように)取り組んでいるわけです。
それはショービジネスの世界だけではなく、(本格的な意味では)数は少ないけれどもCSR(企業の社会的責任)というような形で少しずつ展開している。それはただ例外だと片づけられないんじゃないか。
滝沢
さきほど、環境問題とか、貧困問題とか、そういうテーマも学校の中で取り込みながら考察されていくということをおっしゃいましたね。いまの松潤の話でもそうですが、学校教育の枠というものはあるにしても、その敷居を低くして、いろいろリアルな動向、テーマ、課題を取り込んでいくことも今後の問題解決学習には必要だということでしょうか。
前田
先ほども言いましたけれど、そもそも問題解決とは何かということを考えて、そこから再び学習を考えてみようということなんです。そのとき、それを何学習っていうか名前はどうなるかわからないですけれども。
西
問題を見いだしたり、共有したり、解決しようとしたり、っていうのは、人が生きる上でとても一般的なことというか、いつもやっていることですよね。一人の次元でも、他の人とつきあいながら生きる次元でも。
前田
自分自身にとって切実な問題、個人的な問題を解決することと共同的な(あるいはみんなにとっての)問題の解決は単に別々の問題じゃない。
滝沢
当事者として本気で臨んでいるかどうかということでもありますかね。
前田
そこの部分をもう一度根本に据えて考えていけばいいんじゃないかということですね。それは自己了解ともつながるし、何より西先生のおっしゃっていた、教育の本質にかかわっていく問題かと思っています。
西
複数の人が関わって活動する場合には、「これが問題だよね」っていうことをだれかが言い出して、それから話し合って共有していくことになるわけですが、そもそも、なぜあることが「問題」になるのか。――その根っこにあるのは、たとえば松潤の場合だと、「お客さんが本当に喜んでくれる舞台をつくりたい」という想いなんですよ。そうした想いがなければ、問題じたいが立たない。さらに松潤のなかには「それを皆と共有したい」という強い想いがある。だから自分の真摯な想いを周りに出していくと、最初はどうでもいいや、というか、それほど関心がなかったメンバーも、その気持ちに巻き込まれていくということが起こってくる。
つまり、問題を共有する、ということは、当事者意識ができる、ということですよね。当事者意識ができるということは「本気」になる、ということでしょう。そうした当事者意識・本気、ということが、語り合う中で生まれてくるんですよ。
学校での問題解決学習を行う場合でも、最初は先生がきっかけを投げることがあるかもしれない。そして最初はあまり乗り気でない人もいるかもしれない。でもだれかが、「これ、おもしろいね、それって不思議だよね」って反応を示すと、他の人もおもしろくなってくる。巻き込まれていく。まずは、だれかが何かにひっかかって、そして「やってみたい、考えてみたい」という気持ちが生まれてくる。つまりは「問題意識」の発生があって、次にそれがまわりに伝わると、皆が「本気」になってくる。このようにして共有化しつつ当事者意識が生まれてくるプロセスがあると思うんですよ。
そういうことを含めて、「問題発見・解決」ということはあると思います。ですからそれは、単なるスキルではない。「この問題を考えようよ、これおもしろいじゃん、これが大事なんじゃない」と言い出す人がいて、それに対して「たしかにおもしろいな」だとか、「いや、そこじゃなくてこっちのほうがもっと深くなりそう」という提案もでてきたり、というふうにして、互いの思いを出し合うなかで、問題じたいが深まっていったり、「これ、みんなでやろうぜ」という本気、意欲が出てきたりする。
そうやって問題が固まってくると、次に、じゃあどうやって解決するか、ということで、いろんなアイディアが自由に出されて、場がますます創造的な空間になっていく。
このような問題意識の発見・共有・当事者意識(本気)の生成・さまざまなアイディアを出し合うこと――これを「共同的な探索行動」といってみたいと思うのですが――さらに必要があればそれぞれがみずから「役割」を担うことになる。「これはオレがやるからさ、あっちは君がやってくれない?」というようなことですね。そのようなプロセスを学ぶことは、とても重要な大切な体験になってくると思います、これから世の中で出会っていくいろんな集団のなかでものごとを解決するときにも、それはとても役立つはずですから。
そうした体験を重ねていくと、「メンバーがどんなことを言っても安全なように配慮する」「人の意見は最後までよく聴いて、ちゃんと理解しようとする」「一部の人だけでなくて、なるべくそれぞれの思いを聴こうとする」というような、話し合いの仕方も身についていく。そして、将来さまざまなところで、ともに協力して問題を見出し解決していこうとする場をつくれる人が育つかもしれません。
●「本質」を求め合う喜びを~「触発モデル」のもつ可能性
前田
(問題解決学習に対して)自ら、という言葉が非常によく使われる。それはよくわかるんですけれども、いま、西先生が言われたように、友達が「これはおもしろい」「これはもうちょっと考えたほうがいい」というように、横からの課題であっても、上からの課題であっても、最終的にスイッチが入るのは自分なんですね。そこが担保されていればいいんじゃないか、と思います。
西
きっかけは教師が作ろうが、友達がつくろうが、どっちでもいいんですよね。
前田
そう思います。なぜ今(といっても言われ出して相当長いですが)「自ら」という言葉が言われるのかということはわかります。その通りだと思うんです。でも「自分」っていったい何なのか。個人的なものと共同的・社会的なものを単純に分けることはできない部分がある。おそらく多くの人はそういうことが実はわかっているんじゃないかと思うんです。だけど、いまは、自らという部分が、こと学習ということに関してはまだまだ足りないから、それを強調しようということだと思うんですよ。
だけどそれがわかったうえで(このフレーズちょっとくどいですけど)、敢えてこのような問題の立て方を自分としてはしてみたい、と思ったんですね。
西
「与えられた知識を食べて、試験のときにそのまま吐き出すだけの暗記的学習ではこれからはだめだ。主体的に学んでいくのでなければならない」――そう言われていますよね。高度知識社会では、アクティヴでなければだめだ、クリエイティヴでなければだめだ。問題を提起できなければだめなのだ、というわけです。
それはもちろんわかりますが、でも、アクティヴな主体になるっていうのはけっこう大変だと思うんです。僕はむしろ、「触発モデル」で考えたほうがいいと思う。人間って、いつでも主体的になんかなれない。創造的、自発的、主体的に見える人は、それまでいろんな人たちや書物との関わりながら、さまざまな仕方で触発されてきた。だから、自分のなかにさまざまな視点をもっているんですよ。いわば自分の中にたくさんの人(視点)を住まわせている。だから、引き出しが多いというか、こちらからもあちらからもアイディアが出てきたりする。
よく、「プレゼン能力のスキルをいかに身につけるか」などということが言われます。自分から積極的に発言していくような人に育てたい、ということですね。その気持ちはわかりますが、「そうしたことを身につけられるように何か訓練をすればよい」というのは間違っていると思うんです。まず「個人」に着目して、その個人の能力を訓練によって鍛える、という発想をしている点です。
しかし本当に大事なのは、触発し触発される経験だと思うんです。「△△さんの疑問、これはおもしろいねー」とか、「本気の○○君の発言にしびれた」というように、他者から触発されることで初めて自分の意志とか欲望が立ち上がってくることも多い。それが「主体的になる」ということですよね。
人がなぜ、創造的、自発的、主体的になれるのかというと、そこには互いを触発しあうような関わり合いがあるからなんです。僕はそういう意見なんですよ。
いまの小学校の教科書では、作文やプレゼンのスキルを手順からていねいに説明してくれています。これはありがたいことだと思うのですが、教師が生徒にこれだけを教えても無駄だと思うんですね。
大切なのは、「これって不思議だ、これっておもしろい。これはみんなに伝えたい」という気持ちが個人のなかや、発表する班のなかに立ち上がってきているかどうか。まずそこを一人ひとり、また班のなかに教師は育てていかないといけないし、また同時に、クラスの仲間が、そうした作文や発表を真剣に聴いてくれる気持ちになっていないといけない。生徒は、真剣に聴いてくれる仲間がいると、ほんとうに一生懸命作文を書いたり調べて発表しようとしたりするわけで、そのような「触発しあう関係」がクラスにないところで、スキルだけを訓練しても、身につかないと思います。
前田
僕もそう思います。
そしてまた、そういう課題を見つけたり、他者を巻き込んだりする力をもつ人というのは、「本質」を見ているんですよね。それは仕事の本質でもあるし、授業の本質でもあるし、そこに焦点がしっかり当たっているからこそ、課題を提起したり、人を巻き込んだりもできる。巻き込んだ人を、最初に発言した本人より熱くさせるというようなことが起こってくるのだと思う。それを認めないと、現実的ではない。そういうやり方を、学習の場面に応用することが大切だと思うんです。「主体的な学習」対「教師主導の教授型の学習」という構図だけにとらわれていると、それが見えてこなくなる。
滝沢
だとすれば、本気の核になるのは、「先生」でもいいわけですよね。
前田
そうだと思います。ほかのメンバー、子どもたちでもいい。そういうようにいい意味でゆったり構えたほうがいいと思います。
本質的なものに一貫してこだわるというか、そういうときにこそ、(大切な学習が生まれる)ということなんですよね。
西
相互にかかわっていくうちに、「やっぱりこれは大事だよね」とか、「これはものすごくおもしろい」だとか、「そもそもこういうことがやりたくて、集まってきたんじゃないか」というふうになっていく。すごく大事な本質的なものを、提起しようとする人がいるからこそ、最初はそんなに乗り気でなかった人も、そこに乗ってくるのだろうと。
前田
おっしゃっていたことを嵐のメンバーも言っていましたよ。はじめは、他のメンバーは消極的だったりする。でもライブでお客さんに喜んでもらい、また工夫して、という中で結束していった、という意味のことを言っていました。
西
前田先生がおっしゃっていることは、「本質」の捉え方にも関わってくると思います。本質という言葉は、プラトンがその中期に「永遠不変なイデア」のイメージを出したということがあって、ヨーロッパでは「それ自体として存在する真実在(=真に存在するもの)」として受けとられてきた歴史があります。しかし本質というのは、自分(たち)と無関係にそれ自体として存在するもの、ではないんですね。むしろ自分たちの想いと深く結びついたもの、と捉えるべきだと思います。
よいもの、大切なものを求めたい。よい生き方をしたい。――こういう願いがあるからこそ、私たちは「本質」を問い求める。嵐の松潤のなかに、最高のステージをやりたい、という願いがあるからこそ、「こっちのほうがいいよ!」とか「ここが肝心カナメなんじゃない?」といった発言が出てくる。よく生きたい、という願いが本質――いちばん大切な核心的なもの――を問い求めさせるし、また逆に、大切な核心的なものがハッキリ見えてくると、俄然やる気が出てくる。
本質というものを、自分たちから切り離さずに、自分たちが「よく」生きようとする願いと不可分なものとして捉えることが、いま、とても大切だと思っています。フッサールは「本質は意識の相関者である」(=本質とはあくまでも意識の対象である)」ということを主張して、本質というものを主体に取り戻そうとしたのですが、価値の本質を問い求める動機をより先鋭に表現するならば、「本質とは〝よりよく生きようとする意識〟の相関者である」(=本質とは、よりよく生きようとする意識に対して生まれてくるものである)と言ってもいいように思います。
そして、これこそがソクラテスやプラトンの哲学の根底にあるものだとぼくは考えているのですが、この点はあまり遠くないうちに、一度きちんと論じてみたいです。
滝沢
問題解決学習で最も大切にされてきた子どもの問題意識というものを、西先生が今お話された「本質」の理解において捉え直してみると改めて豊かな学習論が示されたと感じました。子どもも先生も〝よりよく生きようとする意識〟で関わり合っている。学習を、こういう次元で捉えることにとても興味をもちました。触発モデルは学びの共同体の顕れとして受けとめられますね。また、当事者意識には自分たちの想いみたいなものが息づいているのですね。
でも、この意味での人と共同的に学び合うというよさ、学びの共同体の可能性は、この想いと深く結びつけて追求されてきたのかどうかを再び問い直してみることが必要かなと思います。もちろん熱心な方々はいた。「トルネード授業」というように、みんなを巻き込んでいく授業だとかね。でも、それは一部の人だけで、なんのかんの言っても系統学習のなかで知識を習得して、受験に勝っていくというサバイバル・システムの枠組みの中での学校教育ということもあったように思います。そういう形で責任を果たそうとされてきた方々がいたことも事実のような気がします。
でも、いまはそういうサバイバル・システムの枠組みではだめで、問題解決学習をいま話してきたような触発モデルで行う方向で創造していくことで、少しずつみんなが育っていくんだということを本気で感じ始めた。気づきはじめた。だから主体性と創造性が期待できるかもしれない。だいたいそんなとらえかたでいいのかなと受けとめました。こういう私の捉え方でいいですか?それはちょっと楽観的すぎる受けとめ方ですか?
西
そうですね……。景気がずっとよくなかったこともあって、有名大学に集中する傾向や、実学志向がとても強くなってきていると感じています。私立の中学高校も、少子化のなかでの生き残りのために、偏差値の高い大学にどれだけ通すかで競争する。そういう点からみると、相互に触発しあいながら共同的に学び合うことによって、風通しよく集団を営む力を獲得していくことの大切さや、こうしたことがこれからの社会を生きるうえで大切な生きる力になっていく、という認識が、日本社会に共有され重視されるようになってきているとは言い難いと感じています。
一つ言えるだろうことは、そうした学びがうまく展開すると、狭い意味での学力も身についていくはずなのです。もっとも英語や数学はトレーニングをつむ必要があって――スポーツをするときに走り込みや基礎的なトレーニングがないとおもしろくゲームを展開することができないのと同じです――その点は学び合いだけでは直接には身につかない。しかし、触発しあう学び合いが進むと、まずは学びが楽しくなる。物事に対する興味が深まり、物事を多面的な視点から理解する力や、他者の想いを受けとったり自分の考えを相手がわかるように表現する力など、さまざまな点での学力が進展するはずです。問題解決学習を推し進めてきた早稲田大学の藤井千春さんは、いくつもの公立の小学校の先生方にアドバイスをしてきた方ですが、問題解決学習によって学力が上がるということを当たり前のようにおっしゃっていました。
こうした認識が日本社会で広まっていくためには、問題解決学習の意味がどれぐらい深い次元で捉えられるか、ということが大切だと思います。ぼくは触発モデルという言い方をして、前田先生は本質を提起するのが大事だとおっしゃった。これは真剣な先生方の多くが授業実践のなかではっきり感じとってきたはずのものですが、それが二項対立的な枠組みで捉えられてしまうと、やはり広まっていかないと思います。
●多様な感性のなかでの「尋ね合い」
西
さらに一つ付け加えたいのですが、触発しあう学び合いは、私たちの社会のように、多様な感度をもつ人々が集団を営んでいかなくてはならない社会において、必須ともいうべき意義をもっているという点です。
「嵐」の場合は、そもそもステージの仕事をしたい、という同じ気持ちをもつ人たちが集まっているわけですが、教室は、最初からそういう「同じ気持ち」をもつメンバーが集まっているわけではないですよね。むしろいろんな生活感性をもつ親たちの子どもが雑多に集まってきている。だからこそ、先生が「これについてはどう思う?」とか「このとき主人公のこの子は、どんなことを考えていたと思う?」というように、生徒に問題を投げかることが大事になってくる。そうした発問に触発され、巻き込まれるなかで、「おもしろい問題を一緒に考えたい」という当事者性がなりたってくるからです。
そのさい、先生からでもだれからでもいいのですが、何かの発問に触発されながら、互いが互いの感触を出し合うというプロセスがとても大切だと思います。
そのためには、いろいろな意見を自由に言っていい、ということが重要ですよね。安全が確保されていて、どんなことを言っても攻撃されることがない。かなり違和感を抱くようなことがあっても、攻撃するのではなくて「なんで君はそう思うの?」というふうに、相手の想いを確かめようとする、そういう作法が大切です。それにはまず、先生が互いの意見を尊重する安全な雰囲気を育てていく必要がありますが。
よく僕は「尋ね合い」ということを言っていますが、それは「この点は君はどう思うの?」とか「君の言いたいのはこういうことだと受けとったけど、それでいいのかな?」というふうに、互いの想いを尋ね合い確かめあう、ということです。そうすることで、自分の予想しなかったさまざまな感度や視点があることに気づくことができますし、そこから自分の視点を捉え直すこともできるようになる。他者了解の進展と、それを通じての自己了解の進展ということですね。ていねいに尋ね合っていくと、「ねえ、なんで君はそういうふうに思うわけ?」というふうにして、相手の発言の背景にあるものについてもわかっていくことができる。
尋ね合いがないと、話し合いは「弁の立つ者・知識のある者が勝つ」だけのゲームになってしまいます。尋ね合いがあることで、互いのいろんな感度が場に出され、受けとめられるようになる。そういうことが、触発されあう学びを育むさいには絶対に必要な条件になってきます。
このような作法は、多様な感度をもつ人たちが課題を共有しつつ集団を営んでいく、ということのためには、欠かせないものです。このことの大切さは、いくら言っても言い足りないように、僕は感じています。
滝沢
とても興味深いご指摘です。「先生が互いの意見を尊重する安全な雰囲気を育てていく必要」ということで実はちょっと思い出したことがあるのですが、私の授業で茅ケ崎市立の或る小学校の実践のドキュメンタリー番組(NHK制作)を学生たちと見ました。校長先生がまさに同じことをおっしゃっていました。実践創造の途上でご病気で亡くなられましたが、子どもの話をじっくり聴いてあげることの大切さをおっしゃっておりました。そして、そのことは子どもに自信を生む大切な要点だとおっしゃっていました。この学校には、いじめはないようですね。学生たちも深く受けとめたようでした。
このような教育の場においては、多様性は触発の契機となって理解を深め合うことにつながっていくのだと思いました。問題解決学習の本質がこのような「確かめあい」という関係性とか共同性を作り出していくことにもあるのだと思いました。今の時代に、とても大切なことだと思います。
「一人ひとりの子ども」と言うときの「一人ひとり」の意味がとても重たい気がします。
前田
たしかに、「互いの意見を尊重する安全な雰囲気」は学習環境として大事ですね。そういう雰囲気を育てていくために「○○君の意見、最後まで聴いてみようか」といった教師の関与が必要な時もあります。
多様な感度をもつ人たちが多様性を尊重しあうには、単に「人それぞれ」だねと言っていても育ちませんよね。いろんな考えがあることじたいが、長い目で見た時みんなにとって必要なことなんだ、そう思える共通感覚を育てていきたいものです。そのためには、わかったふりをするんじゃなく相互不干渉主義でもなく「尋ね合い」が必要だと思います。
●「自己了解」がキーとなるのはなぜ?
犬端
「教育を哲学する」という観点からみると……、前回西さんが哲学の本質のことをお話になりましたよね。対等な関係の中で、一人ひとり根っこから考え、「これがほんとうだよ」ということを、根拠を出し合いながら話し合っていくこと。そこから、みんなで「ほんとう」と思えることを共有し、積み上げていくこと。それこそが哲学の営みなんじゃないかと。
西
まさしくそういうことだと思います。
犬端
それでいまのお話をうかがうなかで、あ、そこだ!って思いました。
西
たしかに、つながっていきますね。
犬端
それはもちろん自己了解とも関係がある。自分自身の切実な問題を抱え、考え合いたいという動機をもった人たちがその場をつくっていく……
滝沢
そのことが自己了解のはじまりでもあるのだと……
犬端
対等な関係で、頼りになるのは唯一、一人一人の場所からとことん考えるということ。そしてその考えを、人にきちんと届くように根拠を示しながら出し合い、受け取り合っていく。そのときはじめて、自分にとってもみんなにとっても深く納得のできるものが得られること。大切なもの、意義あるものはそうしたなかでこそ生まれていくということ……そのこと自体の楽しさ、醍醐味、手ごたえのようなものを体感していければ、それがいい生き方をしてける力のベースになると思います。また、そういう感度を育てることができれば、社会のよき構成員ともなっていけるのではないかとも思います。
現実社会には力関係、力の支配による場面というのは多いのだけれども、でも、それじゃつまらないな、くだらないな、という人が多くなっていけば変わっていくと思う。
そういう、対等な関係で考え合う営みというのが、普通だし、楽しいし、純粋に生きる力になっていくんだよ、ということを教育の場で体感していくことって大事だと思います
西
じゃあ、ここらで……今日の中心テーマに行きますか。「なぜ教育が哲学にならなければいけないのか」について、ですね。前田先生のおっしゃった、広い意味での問題発見・解決型の学びが、なぜ今教育の柱にならなければいけないのか。
それとおそらくつながると思うんだけれども、生徒の自己了解を深めて育てるということが、なぜ現代における教育の柱、本質にならなければならないのか、ということですね。
滝沢
それに関して僕自身考えてみたい課題が二つあります。
一つは、その自己了解とは、日々のくらしの切実な問いだけに関わっているだけではなく、理科などの自然科学や数学の学びにおいても存在していると感じていて、そこのところをもう少しはっきりさせていきたい。
もう一つは、自己了解は他者と深いところで出会っていくための契機でもある、という前回の(犬端の)発言に関して。「学びの共同体」という話はこれまでも出てきたけれども、自分への理解が、他者や社会にもつながっていくんだ、といったときのそのつながり具合がね。僕はそのことを深く信用できるかどうか、ということが気になっています。また、それが、その人の幸せにつながっていく信頼関係という人間関係性の質を生み出すということなのかどうかといくことが気になっています。
西
自己了解がなぜ大事かというと、近代以降の社会に生きる人間にとって自己了解は不可欠なものになっている、と思っているからなんです。そこからスタートして、滝沢さんのおっしゃった二つの課題につながるように、ともかく話してみますね。
近代以前の農村共同体をイメージしてみます。人の生き方の形はほぼ定まっていて、ある程度の人数の集落で互いの顔が分かっていて、自分は父祖伝来の田畑を耕し、子どもにも田畑を手渡していく、という暮らし。そこでの「学び」で必要なのは要するに、田畑を耕す仕事の仕方を親から学ぶこと、そして代々の「掟」を守ること、になると思うのですね。もめごとは必ず起こりますから、それをどう処理するのがよいか、についても、掟の一つつとして学ばなくてならない。そういう共同体のなかでも、さまざまなことをきっかけに生き方を深く考え込む人もいたとは思いますが、たいていの人は「私はどんな人生を生きるか、どういうことを大事なものだと思って生きるか」「どんなスタンスでもって他人とかかわるか」についての大枠は与えられていた、といえるのではないか。
でも近代以降の社会というのは、そういうものが「当然こうすべき」というふうには与えられませんから、一人ひとりの人間が、「自分の人生はどういう風にあったらいいのか」と自問するし、「他人とどう関わったらいいのか」と悩むし、「どういうルールがよいのか」というような、善悪や正義についての考え方や判断基準も必要になってくる。つまり、他者や自然や社会や自分に関わっていく、その関わりかたを自分のなかで育てていかねばならない、という、重い課題を一人ひとりが背負うことになったわけです。
そうすると、それを一人で作ることはできませんから、小説や思想書や古典を読んだり、互いに語り合ったりしながら、生きる方向を形作る必要がある。ですから近代になると、ドイツの社会哲学者ハーバーマースが言ったように、一七世紀イギリスではコーヒーハウス、一八世紀フランスではサロン、一八世紀末から一九世紀にかけてのドイツでは読書協会のような、書物を読んでは対等に議論しあう場所(公共圏)がつくられることになる(ユルゲン・ハーバーマース『公共圏の構造転換』)。
つまり、各人が自己了解を育んでいけるような仕組みが、近代以降の教育の中にはビルトインされている必要があると思うのです。逆から言えば、技術的・情報的な知だけを与えられて自己了解を育むことができないと、たとえば親から与えられた価値観を捉え直すこともできない。その価値観でうまくいかなくなると、混乱してどう生きていっていいかわからない、ということになります。一般的にいえば、「自由な主体として自分の人生を生きるためには、各人が自己了解を育むことが必須だ」ということになると思うんです。
そこで、滝沢さんのおっしゃった理科など自然科学についても自己了解が成り立つのか、という問題ですが、まず、理科には、その知をもつことで物事に対処したりコントロールしたりできるようになる、という面があります。森のなかで迷ってしまったときにも、太陽の位置から方角を割り出すことができれば、脱出できるかもしれない。
このように、自然の知識が「これでもってあることができる」というふうに捉えられるとき、その知は自分から離れた知識ではなくて、自分が生きることと結びついた知になります。これも一種の自己了解といえなくはないと思います。ルソーは『エミール』のなかで、自然の知識をエミール少年が学んでいくとき、「それは何の役に立つのか、とつねに問え」といっていますが、それは、自然の知を高踏で思弁的な知としてではなく、自分が生きることの必要としっかり結びついたものとして身につけさせたい、という意図から出てきた発言です。
ルソーのいうのはよくわかります。知識が有用性・実用性ということで自分の生と結びつく、ということですね。しかし僕は、理科(自然科学)には、理解することじたいのおもしろさ、豊かさがあるとも思うのです。これはルソーの後のヘーゲルが言っているのですが、多様な自然現象を非常にシンプルな法則で捉える、つまり混沌としたものの中に秩序を見出すことができると知性が満足する、ということもあります(『精神現象学』意識章「悟性」)。――ケプラーが惑星運動の法則を、ガリレイが落体の法則を出した。しかし知性は、さまざまな多様な法則があることに満足できない。もっとシンプルな法則はないかと考える。そしたらニュートンが出てきて物理学を体系づけて、地上の物体の運も天体の運動もごく少数の法則によってじつにキレイに説明した。そんなことを背景に、ヘーゲルは知性の満足ということを言っているのですが。たしかに知性は、一見複雑なものを単純化できると「スッキリ」しますよね。
もっと一般的にいって、理科を学ぶときにはいろんな「気づき」があると思うんです。まず一つには、花を観察すれば「こんな仕組みになっているんだ」とビックリしたり感心したりすることがある。花と昆虫との関わりにも気がつく。そういう仕組みじたいがおもしろい。さらに物理のように、ある考え方をすると多様な物事を美しく整理しまとめあげられる、という、さっき言ったような「知性」の満足のおもろしさがある。また、実験や観察、仮説と検証のようなことをしながら、「こういうふうに物事を扱うことで、多くの人が共有しうる知識をつくりあげているんだな」と気づく。つまり、科学という営みそのものを理解する、という水準での気づきもあると思うんです。
この「理科における気づき」という論点、僕はまだきちんと考えてつめてはいないのですが、こうした気づきを育むことは教育のなかで可能だと思います。さまざまな感触を出し合って触発しあう、ということもできるでしょう。これも一種の自己了解の進展といっていいと思います。
また、ガリレオはなぜ落体の法則を見つけたのか、つまり、どういう動機から物理学をつくりだしたのか、ニュートンはなぜ、というふうに、科学を与えられた知識としてではなくて、その時代のなかでの生きられた「問い」から見直していく、ということもおもしろそうです。科学を「人の営み」として見る視点ですね。これも科学を世界と他者との了解のなかに位置づけていくことになると思います。
次に数学ですが、これは知性の活動の「創造性」を純化したもの、といえそうに思うんです。たとえば微分、積分なども、「なんでそもそもそんな発想をしたのだろう・どういう必要があったのか」だとか、「この発想を手にするとどんな世界が開けてくるのか」だとか、そういう面からみるととてもおもしろい。
数学では新しい概念が導入されると、新しいゲームの世界が展開していく。つまり新たな自由な世界が開けていきますよね。たとえば僕は中学のころ、ベクトルを初めて習ったときに、これは非常におもしろい考え方だなあと思いました。ベクトルという「方向をもった線分」を想定することで、それまでの数学になかった思考回路、新たな世界が開かれていくところがおもしろかった。このように、新しいルールをつくると、そのもとでいろいろなことが展開されうる。このように人間の思考がどのような新しいゲームをつくりうるか、ということ、一言でいえば「自由な創造性」が数学の本質ではないかと思っているんですが、この点は数学者にもお尋ねしてみたいところです。
滝沢
なるほど。知性のもつ創造性や社会性をとても深く受けとめられたと思います。
また、自然科学の学習が自分自身の生き方とつながりそれが新たな学びをつづけようとする意欲を喚起する具合も感じ取れました。「自由」ということを自然科学の学習にこのように理解すると、授業も双方にとっていいものになっていきますよね。先生方の教材研究におけるその教材の成立根拠もとても深いというか気づきに裏打ちされた根拠になっていくんでしょうね。
今の時代を生きていくということは、どんな人生を生きていくかを自分なりに考えながら定めていかなければならないが、そのとき、必ず他人とどのように関わっていくというそのあり方を考えていくのだ、と。その気づき具合が自己了解になっている。それが一人ひとりの自由の感度につながっている。
それから、自然科学や数学の学びにおいても気づきということが不可欠である、と。これらの学習において「意味」として気づいていくことは、環境を主体的に生きていく力や、自分自身の世界観を刷新する喜びに直結していることを実感する、ということでしょうか。
学校の理科の先生や数学の先生も、実はその感度をもって授業をすることが大切だということですね。教科書にあるからとか、受験対応ということだけで因果関係を教え込むのではなく、古の人に思いを及ばせたり、不思議だねという気づきをともなって授業をしていくことに期待できるということですよね。
この学習での気づきは、サバイバル・ゲームとしての学習の営みにおける意味を刷新していくと思います。
西
「気づき」はとても重要だと思うんです。興味や問いかけにつながってきますから。欧米に追いつけ追い越せ、という時代であれば、西欧人の蓄積してきた知をともかく短期間に吸収する、ということが必要だったのでしょうが。
観察したら気づきがあり、相互に触発しあうことによっても気づかされる。このような気づきは理科にもあるはずです。気づきを互いに交し合うということが、数学や理科の世界をより深く味わったり、そのことを応用したり、創造性に振り向けたりする力につながっていくのだと思います。
犬端
前田先生が世界史を教えていたとき、こういう見方をすれば歴史のとらえ方が刷新されていくという観点を、先生ご自身がそのポイントとなる本質を吟味したうえで、生徒に提案していたというお話をなさいましたよね。そういう契機をつくっていくのって重要だなと思います。
たとえば、数学にまるで感度のない僕にしても、いまの西さんの「数学の本質ってこういうことだよ」というお話については、なるほど、それだったらおもしろいな……と巻き込まれそうにもなっていく。
対象性の違い、というのはいろんな分野にあると思いますが、どんな学問分野にしても、なぜ人々がそういう思考の形をつくってきたのかということを紐解いて、動機を探り出していくことって、深い納得のもとにそれを理解し、自分のものにしていくためには重要な気がします。
西
動機がわかると、自分とつながってきますからね。
犬端
数学にしても、あるいは哲学にしても、人々がなにがしかの必要の中で、共同的な営みのなかで形作ってきた知の蓄積がある。子どもたちが、そうしたステージの上にはじめて立って、考え、考え合っていくためには、ここでの本質ってこうなんじゃないかということを考え、それを提案し、触発する先生の存在というのが欠かせないんではないかと思う。それがないと興味関心だって立ち上がっていかないと思います。この対象の本質って何か、自分もずっと考えている。そのなかで、今、このことだけは、確信をもって言えるよ、というような……本質を吟味して伝えようとする存在が、必ずなければいけないと思います。
それに……よく先生方が「子どもから学ぶ」ということをおっしゃるけれども、そうした本質をめぐる考え合いの場が成立したときって、先生も子どもたちの発言を通して新たな発見があるのだと思う。そういう視点からみれば、たしかにそういう考え方も出てくるな、というように。
西
たしかに学生から学ぶということってたくさんありますよね。
●「自己了解」が、なぜ「問題解決」「他者」へと結びつくのか。
犬端
ちょっと気になっているのは、ここで共有し合っている文脈では、「自己了解」と「問題解決」は直結しているわけなんですが、一般的には必ずしもそう理解されてはいないかもしれない。その辺のことをもうちょっと咀嚼して伝えられないかな、と思っています。
西
なるほど。自己了解の概念を僕が使うときは、ハイデガーの「了解とは可能性(できる)の了解である」という考え方を意識しています(『存在と時間』§31)。コップを理解(了解)するとは、このコップで何ができるかを理解することだ、とハイデガーはいうのです。子どもがコップを理解するには、当然その言葉がコップを指していることを理解しなければいけませんが、それだけではなくて、これでミルクやジュースを飲むんだということがわかったときにコップが理解できた、ということになる。
つまり、理解、了解するということは、それでもって自分が何をできるかという、自分の可能性と連動して理解しているわけです。あらゆる理解をたどっていくと、必ず「わたし(たち)は何を為しうるか」の理解とつながっている、ということ。これがハイデガーの了解の意味するところなんです。
それでいうと、たとえばベクトルが何かがわかるということは、ベクトルでもっていろんなことがつくれる、世界が展開できる、ということになります。単に問題が解けるということではなくて、それでもって新しい世界が展開できて、その面白味や自由を味わえるということなんです。
ということは、あらゆる新しい了解や気づきは、それでもって何かできるという新しい可能性を孕んでいる、ということになります。つまり「こういうふうにやってみたいな」とか「こういうふうにできるな」というようにして、自分の生の新たな方向付けが生まれてくる、ということになる。
犬端
自分の可能性と結びついているからこそ、その対象の意味が深く納得できる。
西
単なる知識というのではなく、自分の生きることの可能性とつながってきたとき、それは自己了解になったと言っていいんでしょうね。
犬端
そこから得られていくものって、やはり「魂の配慮」なんですよね。
西
うん、最終的にはそこにつながっていくと思います。「わたしはこのことで何を受け取ったのか」「この気づきは自分のなかに何を切り開いたのか」ということを問い直すと、まさしく魂の配慮になっていくわけですよね。あえて自分の気づきの意味をもういちど言葉で確かめなおし、それが魂にとってどんな意味をもつかを考えるとき、魂の配慮ということになっていく。狭義の自己了解と言いかえてもいいと思いますが。
前田
先日させてもらった、進路相談をしているとき、「教師をしている」実感をもてたという話ですが、それはまさにいまおっしゃった「自己了解」だったと思うんですよね。お前は何をやりたいの、これまで大事にしてきたことはなんで、これからやりたいことは何なのという話を投げかけ、それを明確にさせていくというのは、まさに自分がどうありたいかということを自分自身で考えていくことができるように話し相手になっているわけです。そうした、僕は自分が教師をしていたことを実感できる場面というのは、まさに自己了解を促すような仕事をしていたときだったんだな、と思うんですよね。
西
そのことが、この子の生きることの大きな力になるはずだ、という直観があったわけですよね。
前田
自分の人生どう生きるか、ということもそうだし、自分はどのように社会的存在となっていくのか、なりたいのかということを自分自身で考える場面を作り出していた、と思うんですよね。
滝沢
それが先生としての最たる仕事、ということですよね。世界史の授業の中でも、子どもに気づきが生まれ、子どもの顔が輝いているとき、やはり教師をしているな、という感じは生まれますか。
前田
そうですね。やはりそのときも自己了解がキーワードの一つとなると思います。
西
世界史だと……いろんなポイントが考えられますが、一つは近代の意味でしょうね。人権という概念ができてきたとか、民主主義の制度、議会制が名誉革命によって確立された、という事実があるわけですが、現代にまで受け継がれているそうした概念や社会的な仕組みは、なぜ、どのように生まれてきたのか、というのが、1つの大きな焦点になりますよね。それを考えることは、社会の一員としての自分のありかたを捉えていくことにまっすぐつながっていきますから。産業革命のもたらしたもの、なども、いまの自分たちにつながってくる。
そのように授業を展開できれば、決してイデオロギーを注入するということではなくて、歴史を学ぶことが、われわれがわれわれとして、どのように社会を生き、またこれから社会を作っていこうとするのか、という問題に直接かかわってくることになりますよね。
前田
僕が心がけていたのは、自分自身から見直していくというか、今自分たちがこうしてあるのは決して一朝一夕のことではなく、こういう道のりを辿り、巡り巡ったうえで……今のみんなの豊かさ、みんなの困難があるよね、というように気づきを促していくことでしたね。それもまさしく、自己了解の一面だと思います。
もう一つ例を言うと、イスラムですとか、まったく自分の経験したことのない、自分たちの社会とかけ離れた異文化をとりあげ、こんなことを考えながらこんなふうに生活している人もいるよ、ということに触れさせた。これは一見自己了解とは関係がないようですが、自分を外側から見る視点を得ることにつながっていく。また、違いだけではなく、自分たちと共通する部分も多くあることが分かるようになる。そうした異文化理解は、世界史のときに意識していました。やはりその背景には、自己了解を促していくという動機があったように思います。
犬端
先ほど滝沢さんから指摘していただいた、自己了解が他者を知る契機になる……というのは……直観としてはそうだという思いがあるのですが、いざそれを説明するとなると難しいなと思っていました。
それで、いまの前田先生の異文化理解のお話をうかがいながら考えていたんですが……「なんでこの人はそもそもこんなことをしたのかな」「どういう動機をもってこういう営みをなしたのかな」ということを理解していくプロセスって、自分に引き付けて考えるということを自ずとしていますよね。自分自身が世界を理解、了解し、世界と関わり合っていくありようをもういちど紐解いて見つめ直し、そこになぞらえながら、他者の行為の背景にある動機を推測していく。そうしたプロセスを経ていくことで、ようやく納得が生まれてくるように思うんです。どうしてこの人の場合はこちらの方向を選ぶことになったんだろう、という自分との「違い」を理解していくことにおいても、そうだと思います。
また、そうした形で他者を理解していくことを通して、自分にしても他者にしても、それぞれ自己の世界観を形成しながら生きている一個の主体であることには変わりないんだ、という感度が育まれていくように思う。
今日の西さんのお話の、「尋ね合いの関係」もここに直結してくると思います。他者了解の進展と、自己了解の進展とが一対のものだと実感できる経験を得てくことって大事ですよね。
そうした感度をもち、それを前提にしたうえで、ともに共有可能性を探っていこうとすることが、社会的関係を構築する足場になるものじゃないかと思います。
西
犬端さん、とてもいい言い方をしてくれました! 他者了解と自己了解の進展のなかで、互いの動機の理解や世界像の構築してきた仕方や理由がわかっていく。そうしてはじめて、自分と他人とが一個の対等の主体なのだ、ということが実感として感じられてくる、ということですね。「人権」ということは形式的なルールではなくて、そのような実感のもとではじめて支えられるものだと思うのです。そしてそのような実感があるからこそ、語り合いながら皆の共通の意志をつくりあげること、つまり民主主義も可能になる。
逆からいえば、人権も民主主義も、このような相互了解のプロセスの進展なしには成り立たない、といえると思います。
④「問題解決学習」その本質を考える
西
今日はたくさんの大切な論点が出てきました。それを整理しておこうと思うのですが。
問題解決学習は、狭義で捉えれば、集団のなかで問題を設定し解決していく、という形をとった「学びの一手法」ということなのでしょうが、その本質においては、現代における学びの核心ともいうべきものを含んでいる。そこを自覚してみよう、というのが今日の話でした。
問題解決学習の核心を、あえて一言でいうと「生徒たちが相互に触発しあうことによって、共同的に探索する時空間を創り出す」ということになると思います。さらにそこに含まれている大切なものを、四点でもって取り出してみます。
① 他者了解と自己了解とを同時的に進展させる(他者了解と自己了解)――互いのあり方や発想の違いに気づくとともに、互いに共通する想い(バカにされたら悔しい、など)にも気づいていくことができる。
② 問いを共有し解決するためのさまざまな試行を共同的に行う経験をもつ(共同的な行為)――当事者性の形成、創造性の発揮、自発的な役割取得などが育つ。結果として、教室が皆の居場所になっていく。これは多様な感度をもつ人々からなる社会のなかでともに生きていく「市民としての力」に、そのままつながっていく。
③ さまざまなテーマに対する、さまざまな視点や関心を育む(意欲ある学び・多様な関心)――最初はあまり興味のなかったことでも、他者の発言に触発されて興味が出てきたり目が開かされたりする。また、人類の知的な遺産を追体験的に自分のものにする、ということが含まれてくる。
④ 学びを「自己了解」と結びつける―― 一人ひとりの「気づき」を大切にして育てながら、外在的な知識の注入でなく、知識が「私と他者と世界との関わり」の理解につながっていく。これは、各自が「自分自身の生き方」を育むことにつながる。
四つに分けましたが、①と②は集団を心地よく創造的に営む力、③と④は主体的に意欲をもって先人たちが形成してきた知識を体得していく姿勢、ともいえますから、大きく二つに分けてもよいのかもしれません。
ともあれ、これらは近代以降の「自由な社会」――多様な価値観をもつ人々によって成り立ち、生計を立てるためには知識の比重がきわめて重くなっており、一人ひとりが自分と世界との関わりを創り出して生きていかねばならない――を生きていくための力という点では、どれも必須のものといえると思います。
次回以降は、いまの諸点も含めて、教育の本質、とくに近代以降の社会の教育の本質について、さらに深めていきたいと思います。