「道徳教育」を考える(2015.9.5)


道徳教育。それはどこに向かっているのか

 

滝沢

平成30年から、道徳が教科に格上げされることになりましたね。道徳教育に関しては一時イデオロギー的な対立がありましたが、以前とは状況が変わってきている気がする。中教審の答申を見てみると、考えること自体を軸にし、大切にしようとする方向性が出てきている。教科となるので検定教科書は使うわけですが、それでも教材を読んで終わり、というのではなく考える活動が重視されようとしています。これまでのようにイデオロギー対立的な枠組みでとらえることは生産的ではないように感じています。

 

 

指導要領をみても、「生きる力」をキーワードに子どもの主体性を大切にしようとする発想が引き続き前面に出ていますよね。いったん本質的な方向性ができると、それはもう不可逆なものとして進んでいく、ということかもしれないですが、前田先生たちが取り組まれてきたことがかなり根付いてきているのでは、という感じはしています。問題解決学習、というか、一人一人が考え、共に考え合い、それぞれが単に知的理解にとどまるのではなく、自己了解につながる視野を得ていくという流れが、明確に自覚されてはいなくても、次第に定着しているのではないか。その延長線上に道徳教育をとらえていこうとする動向が一つにはあるのではないだろうか、という期待はあります。

 

 

考え合う営みが、知的な内容を得ていくための基礎にも、関係づくりの基礎にもなる、という発想ですよね。

 

 

そうですね。でも、そういう期待と同時に違和感もあるんです。

 

 

その抵抗感は、どこから来ているんですか。

 

 

指導要領や、文科省が主たる教材として提唱している「わたしの道徳」などを見てみると、考え、話し合う学習活動が前面に出てきている一方、価値的なものの存在をかなり素朴に前提したうえで、それを分かるようにしましょう、実践できるようにしましょう、と促している感じが強く、そこに違和感を抱いてしまう部分があります。

 

 

でも、中教審の答申で文科省はこういう言い方をしている。道徳教育は特定の価値観を押し付けようとするものではないか、という批判がある。だが、道徳教育の本来の使命を考えれば、特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず、言われるがままに行動するよう指導することは、道徳教育のめざすものではそもそもない。むしろ多様な価値観に向き合い、それを前提とすることが大切だ、と。こういう言い方をしていますね。

こうした言葉が指し示そうとしている方向を、僕は信じたいと思う。

 

 

そうした流れが本筋になっていけばいいな、という期待はあります。

でも、一人一人が価値を吟味しあっていくことにつながる学習活動が、これまで以上に重視されていることはよくわかる一方、文化伝統を大切にするとか、……伝統文化はまずよいとは思っていますが、人知を超えた崇高なものに対する畏敬の念を抱くというような価値項目が、かなり素朴に置かれている印象を与える部分もある。そのギャップが気になっています。その溝を埋めていこうとする発想が出てこないと、うまく展開はしないのではないかと思います。

 

 

教育基本法が変わって、国を愛する心とか、伝統を大切にすること……もちろん他国との関係も同時に大切にしようとすることは謳われてはいますが、そうした伝統的なものに対する敬意、自然などおおいなるものに畏敬の念を抱くことの重要性がひときわ前面に出てきている。そのバランスを考えないと、もろ手を挙げて賛同するというわけにもいかない、ということですか。

 

 

そうですね。問題解決学習……というか主体性と自由に足場を据えた学習展開が期待できる部分と同時に、もっと哲学的な発想が必要でないか、という部分もあるように感じます。「よい」ことや「正義」を自信をもって行えるようにする、ということが、学習指導要領では言われているわけですが、「よい」「正義」という概念が、何か実体的な価値のように、素朴に置かれている印象を受けるんです。そのこと自体の内実、自分自身とどうかかわりがあるのかということを吟味していく機会を持てない限り、それは実のあるものにはならないんじゃないかと思います。

 

「人知を超えた崇高なもの」ということについても、「人知を超えた力」として人が信憑してきた対象があるわけだが、その内実はなんだろう、自分自身とのかかわり、他者や世界とのかかわりの中でどんな意味があるんだろう、と自己了解に結びつけその本質を吟味しようとする発想が持てなければ、それは一義的な真理への素朴な信を注入することにつながりかねないのではないかと……

 

 

この指導要領が出てきたとき、背景にあったのはいじめの問題だと思うんですね。さらに、産業界や、与党の一部だと思うんだけれども、「今の若者たちは」というような言い方で、今の若い世代にルール感覚のないことや良識が欠けていることがさかんに指摘されるようになったこともある。そうした保守派からの要請の影響も大きいし、安倍首相なんかまさにそれをプッシュする立場ですよね。

 

 

西

多様性を無視して何か一つの徳目を押し付けるというのは道徳教育としてダメだ……ということが、まずきちんと確認され共有されていないといけませんよね。

 

話し合いや議論を行おうとするときに、あらかじめ正解があるというのではなく、自分自身の感度を出し合い、受け止め合っていくことを大切にできるセンス、言葉を交わし合うセンスを、教員がしっかりもっていることが大事だと思います。話し合いをきっちり30分やらせました、ということではないだろうと思うんですよね。

どんなことを発言しても大丈夫だという安心、安全性が保障され、なんでそう考えるの、ということ尋ね合い、ああそういうことなんだ、と確認し合いながらお互いの思いを丁寧に受け取り合っていく場面を持てるようにすることが大切になると思う。

 

そういう空気さえ作れれば、「正義」を話題にしたときでも、それぞれの感度や思いを出し合いながら、「ここは共有できるよね」「ここは大事なんじゃないの」ということや、「ここは意見が分かれるね」ということを確かめ合っていけると思います。

 

 

自分自身、当初「正義」という言葉に対しては違和感がありました。かなり昔の話になりますが、西さんの朝カルのレクチャーで、「正義」を題材にした本質観取を最初に体験したときはその状態でした。

 

一義的な真理や正義と呼ばれているものに対して自分は嫌悪感をもっている。その背景には、正義の名のもとに、自らの価値観と受け入れ難いものに対して理不尽な攻撃を受けたり、与えたりしてしまったときのゾッとするような感覚があったりする。だが、その反面、多くの人と共有し合える公正性への尺度を必要ないと思っているわけでは、決してない。

 

本質観取での、自分自身の感度を率直に出し合い話し合う活動は、それこそこうした自己了解を踏まえたうえで、共有可能性を得ていくものでした。で、そうこうしているうちに「正義」という言葉の語感自体が変わっていったんですよね。自明な正しさというものが与えられない現実があるからこそ、「正義」というキーワードを置き、その本質をともに考え合っていく営みの重要性があるのではないか。そう思えるようにもなってきました。

 

 

自分自身が理不尽な扱いを受けたときなど、正義の問題が決してひとごとではないことがわかりますよね。

そしてまた、語感自体が変わっていくというそのお話、とても大切なことだと思いました。その変貌の経験は、とても意味があると感じました。

 

 

西

特定の行為を正当化するために正義が標榜される、ということは歴史的に常に行われてきた、ということがある。そうしたことから、その言葉自体に胡散臭さや、権力性を直観する、という感度も私たちのなかにある。

でも、自分たちで一つの場所を営んで関わり合っていくとき、「ひどいことをされた」と感じたり、自分が直接に被害を受けなくても「それはやっぱりまずいよ」と思うような場面が出てくるわけですよね。滝沢さんのいうように、理不尽な扱いを受けると社会正義というものの必要が感じられる。

 

学校教育では個々がかかわり合う具体的な場面がさまざまにあるわけですから、それらを通して、「人の意見をきちんと聞くことは、みんながその場を気持ちよく作れるために必要だ」という実感が育ち、さらに「公正」「正義」という言葉が実感を伴ったものとして受けとめられるようになるとよいですよね。

 

 

そういう価値的なものの吟味検討を踏まえたうえで展開できることが、とても大事だと思います。当たり前に「よい」こと、自明な価値を感得できない状況があるからこそ、それぞれの場から共有可能なものを探り合い、必要な局面では普遍的といえる価値をともに見出す経験をもち、その営みそのものに期待をもてるようにしていくことが、いまだからこそ重要なんじゃないか。そうした方向に道徳教育が展開していくならとてもよいことだと思います。

 

でも、不安を感じるのは……滝沢さんもおっしゃってくださいましたが、中教審の答申では「ある特定の思想に凝り固まらないように」と確かに言われている。でも、その「特定の思想」とは何なのか。いまの風潮からすると、「排他的で独善的な国粋主義」というわけでもなさそうですよね。むしろ権力への追従をよしとしない立場を総じて左翼的と称し、糾弾するようなことが起きているわけですし。

 

 

西

沖縄のメディア問題に関する問題が最近ありましたね。

 

 

そうですね。自民党の議員の学習会で、講師が沖縄の新聞社を偏向したメディアだと攻撃した、という話。そう発言した人は、素朴にそうした世界観と正義観をもっているんでしょうけど。

 

 

スポンサーにつかないようにしよう、ですとかね。ひどいですよね。さすがに自民党のなかでも、問題視はされていましたけど。

 

 

西

まともな感覚をもっていればそう思いますよね。

 

 

ほんとうですよね。……そうした風潮があるからこそ、道徳教育が今後どこに力点をおいて進んでいくべきなのか、ということをはっきりさせていかなといけない、と思うんです。

 


 

道徳教育。それを実りあるものとするためには……

 

西

道徳教育では、「現実条件」を考えることが重要だと思うんです。人間は条件を欠けば我儘な迷惑な存在にもなってしまうところがあって、だからこそよい条件を築いていくことが必要になってくる。

 

だからまずは、「そんなこと言ったってできないよ」という声が発せられる自由が教室の中にはないといけないと思う。なんでできないんだろう、なんでそういう気持ちになれないのだろう、ということを正直に語り合える空間をつくることが大切だと思います。「道徳的な人間になる!」という決意を求めるのではなくて、みんながいい気持ちでやれるための条件は何か、そこをいっしょに考え配慮しあっていく、という方向になっていくといい。またそのような経験が、道徳教育として必要だと思うんですね。道徳性の根幹は、皆がよい気持ちで活動していけるように配慮しあうこと、といっても言い過ぎではないと思う。

 

 

学生に聞いてみたら小学校、中学校時代の道徳については何にも記憶に残っていないというのがほとんどでした。徳目を言い当てるような道徳活動は、きっとそんなに心に残っていないということなんですよね。

 

学習指導要領総則にも書いてあるように、道徳教育は教科指導、特別活動を含め、学校全体で取り組まれていくものだと考えられている。社会科のなかでも道徳教育は成立するわけですし。でも、今後は特設の教科としての工夫も併せて求められていくわけですが、その中でも、哲学的思考を持てるかどうかということが大きいんじゃないかと思います。

 

 

西

そうですね。そのためにも、考える自由があるか、発語の自由があるか、疑いを許容されるか、ということが重要になってくる。現実条件への配慮を欠いたうえで「いいことをしましょう」というのは口ではいくらでも言えてしまうわけなので。

 

むしろ約束を守る大切さを考えるのであれば、約束を守れなかった経験を踏まえたうえで、あのとき守れなかったのはなぜだろう、と考えることが大切だと思います。守れなかったケースのほうが、むしろ学ぶべきことは多いかもしれないですよね。

 

 

そういうジレンマそのものに向き合おうとしていくことが大事なんじゃないか、と。

 

 

西

そう、そうした発想が必要ですよね。

それはこの指導要領の中でもやれるような気がします。でも、そのためには、どういうセンスが必要になるのか、ということを考えるのが重要になりますね。

 

 

滝沢さんが言ったように、哲学的な発想をもてるかどうかということが非常に重要になる。それがはっきりする対象なのかもしれないですね。この道徳という教科は。

 

そもそも哲学であれば、道徳の本質、道徳という言葉のもとに共有していきたい意味や価値はなんだろう、という発想から出発しますよね。

ただ、最終的な目的が「ともによく生きていける力」を得ていくことにあるとしたならば……そもそも「道徳」という言葉そのものがふさわしかどうかも分からない気がしています。こんなことを言うと身も蓋もなくなりそうですが。

 

 

西

それはありますよね。たいたい、「道徳」という言葉自体がふだんの生活の中で、「正義」同様いろんな色合いをもってしまっているわけですから。

 

 

やはり西さんの本質観取のワークショップで、参加者から、自分自身のなかで道徳という言葉はすでに死んでしまっている、だから本質観取がしづらい、という発言があったことが印象に残っています。

 

 

西

たしかに死んでいるかもしれないですよね。

 

 

ただ、カントも道徳を論じているわけですし……

 

 

西

自分のなかで、これはよいことか・悪いことかを、根拠をもって確かめる、ということですよね、カントが「道徳」という言葉で言おうとしていることの意味は。ですから、自分の外側に実体的な価値規範があってそれに従う、というのではなくて、個々人の主体的な吟味を大切にする、ということなんです。もちろん、自分の中になにがしかよいことをして生きていきたいという気持ちがあることが大前提となるわけですが。

でもこれは、カントが使う道徳(モラール)という言葉の意味合いだから、日本語の道徳の語感とはだいぶ違うかもしれません。

 

 

道徳という言葉の語源は何で、本来的な意味は何かということを考えても実りのある結果は得られないと思う半面……道徳は自分の中では死んでしまっている、と人に感じさせる意味合いを帯びてしまっている、という現実は確かにあると思います。

 

それはなぜでしょうかね。そもそも道徳という言葉が、「これこそ人が本来歩むべき道だ」という、実体的な価値であるかのような意味合いを背負ってしまいがちであり、それに対して、「そんなに自明的な、かつ本来的な価値などあるものなのか」という疑問を、現代社会を生きる人たちが抱いてしまいがちな現実があるのかもしないですね。

 

 

前田

「道徳」を問い直すということが必要なんでしょうね。大事なことは道徳の時間を、哲学の時間にしなければいけない、ということだと思います。
自分の体験から考えられるような、友だちも(それぞれの体験をしているけど)同じような体験があることを感じられるような時間になればいいですね。

 

例えば「自由」「平等」「人権」という価値はすごく大事なものだと思いますが、そういうだれも反対できそうもない価値にしても、自由って何だ、平等って何だ、なぜ大事なのか、そもそも人権ってなんで生まれてきたのか、という話から始めないとだめじゃないか、って思うんです。

 

 

西

「自由」「平等」「人権」というのはもちろん大事な価値ですが、ヨーロッパの近代思想では、自由がいちばん先というか、大もとになっています。一人ひとりが自由に生きていくことを大事にしようよ、ということが即ち人権です。そして、自由に自分の意志で生きていきたいという点ではどの人も同じだ、という感受が平等ということの基礎ですし、 これは人びと一緒に暮らしていく社会のなかでは、ルールのもとでの対等・公正さという点につながってくる。一言でいうと、対等・平等は、自由の感度とそれの相互承認から出てくる。そんな関係になっています。ですから、自由・人権・平等すべてがつながっている。

 

ぼくは、自由・人権・平等のすべてが生まれてくる〝根本経験〟があると思うんです。つまり、互いの感度を出し合い聞き合うことで、自分自身の見方がまわりから受けとめられたり、また他者の意見によって自分の見方が刷新されたりする、という経験。同じことですが、一人ひとりがそれぞれの思いを持ちながら生きていることが実感できるという経験。これらが、自由・平等・人権の感覚を生み出すもとだと思います。てすから、教室という空間を、そうした経験を得ることができる場所にしていくことがとても重要なんですよね。

 

教育の柱の一つは、そこに収斂していくと考えます。リベラルな自由な社会と、そこでの生き方を支えるものとに教育は結びついていくべきですから、自由・平等・人権はやはり道徳教育の柱となるべきだと思いますが、しかし、前田先生のおっしゃるように、「自由、平等、人権はとても大切な神聖なものだ」と教えこむのではダメですね。そうではなくて、僕らの生活、そして子どもたちの生活の中で、どうしたらそういう感度が育まれていけるのか、というふうに考えないといけない。

 

 

お互いの感度を率直に出し合う場面を持てるということが、やはりまず出発点となる……

 

 

西

そうですね。それをベースにしたうえで、お互いの感度の違いがあってよいものもあるけれども、ここは共有できるよね、ですとか、この次元では共有できないが、こういう水準であればみんなで認め合えるものが出てくるね、などと、共有性をつくる作法が生まれてくるようにしないと、話し合いは展開できないわけですよね。

 

 

それは決してたやすいものではないのでしょうが、学校教育で取り組んでいかなければいけないことですよね。大人の社会にしてもそうで、そうした発想が欠けていると、差別の問題なども陰湿な形で横行するようになってしまう。そうではない関係性をつくれる力を、学校教育のなかで得ていくことが重要だと思います。

 


 

学校だからこそ、できることがある

 

西

学校はある意味人工的だからこそ、対等に語り合える空間をつくれる可能性があるわけなんですよ。現実社会のほうが条件は厳しいわけですから。

 

 

現実世界では、様々な場面で力による支配が連綿と続いているし、会社にしても一般福祉の向上というより、より多くの利潤を得ていくことを至上命題としているようなところがまだまだ多くあるわけですものね。でも同時に、多くの人がそれに違和感を抱きつつ生活している現実もあると思う。そういった意味では、よりよい関係を作り、生きていける力と感度を学校教育の中で得ていくことって、今後の社会への希望と展望をつくっていくうえでほんとうに大事なことだと思います。

 

 

西

互いの感度の違いを受け取りながら、「この部分は当然違っていてもよいことだよね、でもこの点は共有できたね」とか、「この点は共有しないと僕らはいっしょに気持ち良く活動できなくなってしまうんじゃないか」というふうに互いを認めつつ、それぞれの独自性と共有性とを同時に認めあっていく場面をもてるかどうか。――これはぼくが先ほど〝根本経験〟といったもののなかに含まれているはずのものですが、このような「相互承認」の経験は市民の一人として成長していくうえで、まさしくキモになるところです。

 

総合的な学習の時間などを通して、話し合い活動は重視されてきているのですが、いま言った「相互承認の経験」というようなことが明確に意識されないと、「それを通して何を得ていくのか」ということがアイマイなままになってしまう。結局、知識のある子や弁の立つ子が勝つだけ、になったり、またそれぞれの意見を出し合ったうえで「いろんな意見があるね」ということで終わってしまったり、ということにもなりやすい。

 

哲学や本質観取を通して、それぞれの感度を踏まえたうえで共有可能な価値を見出していく経験を得ていると、その意義がすっと入ってくるはずですが、でも、その理解を広く得ていくことはまだまだ時間がかかりそうですね。

 

 

例えば「主体」というものは、人やものごととかかわり合いながら育っていくものだと思うんですけど、その感覚を広く共有できているかというとそうでもないな、という感じはします。

 

 

たしかにそういう主体が育っていくダイナミズムに対しての感度は、まだ十分には共有されていな部分ですよね。

 

 

主体的に学習しようとか、主体性をもとうとか言われますが、その場合の主体的、主体性ということには、いま言ったような考えは含まれているんでしょうか。ひょっとしたらそういう考えをもつ人は少数かもしれません。でも少数だからよくないとは思っていませんけど。

 

 

西

でも、「よい」ものであればこれから普遍性をもつ可能性がある。

 

 

そうですね。道は遠そうですが。

 

 

西

さっき言いましたように、学校の中で安全で安心できる空間を教員がつくり、言葉を発したりすることの喜びや、言葉を受け取り合う喜びを実感できる体験を得ていくことが大切ですが、そうした空間そのものを生徒自身が互いに配慮してつくれるようになると、それはすごく重要な進歩ですよね。そんなことが道徳教育を通して可能になると素晴らしいと思います。

 

しかし社会の側にも教員の側にもそういう感度がまだできていないですよね。学習指導要領がどのようになっていくかを今後見ていきたいと思いますが、一つ心配なのは、道徳的な価値判断も「個人の能力の発達」として捉えられてしまいかねない、という点です。確かに、評価するさいに個人単位でみていくことも必要ですが、実は集団のなかでの経験によって個人の道徳的能力は大きく発達する。

 

互いに語り合いながら場面をつくることができ、さらに自覚的にものごとを互いに工夫しあい展開する場所をつくっていこうとする意識ができたとしたら、それがまさしく社会を担う集団の一員としての自覚が生まれたということですよね。大きな道徳的成長があったということになる。自治の主体というのはそういうことだから。自分たちが共存できる条件を自分たちで自覚的につくっていくなかで、公平性って大事だよね、だとか、みんながそれぞれの思いを口に出せなくなっちゃうと、集団ってすごく居心地の悪いものになっちゃうよね、というような知恵がはじめて身につくわけです。

 

そういう意味で、教室という集団のなかで生徒たちがどのような意識と行動を作り出していったか、ということが、少なくとも教員のがわの目標となるべきだと思うのです。そんなふうにして道徳教育に取り組んでいけると、全部がつながってきて深いものになるように思えます。

 

 

やはり「道徳」よりも「哲学」なのかな、という気はどうしてもしてしまう。哲学の本質は何かというと、普遍洞察にある。それでは普遍洞察が何かというと、一人ひとりの生の条件に照らし合わせたうえで共有可能な価値を見出していく営みとしてある。一回性としての実存、限られた個々の命を、関係性のなかで生きていくという、人間の生の基本的な条件から考えていくと、こうした普遍洞察そのものが可能性の原理にもなっている。そうだとしたら、ストレートに「哲学」を体験できるようにしたほうがよいのではないかと思います。

 

でも、現状からあまり遠いことを言っても生産的でないですよね。「哲学」のこうした本質にしても共有されているわけではないですし。まず「道徳」を通して、「哲学」と同様な営みを実現していくことが大切だと思います。

 

 

西

そうですね。「道徳」ではだめだよ、というよりは、これをこういうふうにしたらもっとよいものになるよね、という提案をしていくべきですよね。

 


 

未来への「信」を育むために

 

いま、現場でどのように道徳がとらえられているかというと、価値観の押しつけはいけない、と思いながら……でも、道徳性は養うべきだな、どういうふうにすれば、この子たちに道徳性を養えるんだろう、難しいな、というような状況じゃないでしょうか。

 

さきほど滝沢先生が、「小学校でも中学校でも、道徳の時間に対する記憶はないです」という学生がほとんどだという話をしてくださいましたが、今後道徳が教科になっても、右往左往しながら良心的に悩み、どうしていいのかわからない……そんな教員が少なくないんだろうなと思います。

 

だから、哲学という言葉にこだわらなくてもいい、本質という言葉にこだわらなくてもいいけれども、こうした議論がいろんな立場の人たちに届くといいですね。ちょっとおおげさな話かもしれませんが。

 

 

今の話、すごくリアリティをもって想像できました。そして、そういう議論がとても大切だと感じ、我が事としてそのよさをだんだん共有できていったらいいですよね。

 

今度18歳から投票することが決まったじゃないですか。それで、高校で「公共」という教科を創設して選挙など政治参加について学習し、政治の勉強をするようにしよう、という提案があるのだけれども、その一方で、先生が政治的中立性を保持できなければペナルティを課す、という話も出てきているようですね。こんな話を聞いたら臆するに決まっていますよね。

 

そんな状況を踏まえると、子どもを主体的に育てたいけれども……葛藤を感じてしまう場面が多々あるのかな、という気がしています。

 

 

結局のところ、どこまで生徒を信じることができるのか、という話になると思いますよ。

僕は中途半端な人間なので、人間全体を信じられますか、と言ったら信じられないですけれども、生徒を生徒として信じますか、といったら信じますね。だから自信をもって、「お前らなんか信用してないよ」っていう悪態をつくこともできますし(笑)。でも、その感覚が(教師の側に)ないと、教師に対して向かってくる生徒を受け止めることができなくなってしまうと思うんです。

 

 

当たり障りのないことをするのが常、ということになってしまう……

 

 

この場では、こういうことを言わなくてはいけないんだ、というように子どもが気にするようになってしまったら、もうだめだと思うんですよね。

 

 

西

生徒が、関係を育み自分なりの生き方を作っていく可能性をもった存在だということを信じていることが大切だということですね。

 

 

それが砦となる……

 

 

西

それがないと注入ということになってしまう。ないしは矯正とか。

 

 

そう。可能性を信じる、ということなんですよね。

 

悪さばかりしている生徒も、どっかでこのままじゃいけないと思っているんだろうなということ。別に科学的にデータをとっているわけではありません。でも、そう思って生徒に向き合っていかない限り、学校という場は成り立たない、という感覚が僕にはあります。

 

 

生徒のことばかりではなく、保護者からもいろいろなクレームが学校に寄せられてくるという社会変化の中で、それでも親が何と言おうと、目の前のこの子を信じて分かり合い、ある方向をつくり出していけば、やがて親も自己中心性を自覚し、理解してくれるだろうと信じて取り組んでいく……という感じですかね。

 

 

親から理不尽と思われる批判を受けたこともありましたけれども、その親に対しても、心根には我が子によりよくあってほしいという思いをもった存在なんだ、ということを信じるようにしていました。そうでない限り、保護者に対しても、ちゃんとした対応はできませんから。

 

話は変わりますが、先日「いい会社」に投資するという方針の投資会社のことを偶然知りました。

社会的意義を果たしつつ利益もあげることができる「いい会社」に投資するという考え方ですね。

 

 

利潤追求だけではなく、社会全体の持続可能性を視野に入れた経済哲学が背景にある、という感じですか。

 

 

そうですね。ただ、社会性だけじゃなく、経済性としても両立できるようにしましょう、というのが基本的な考えなんです。善意のもとで活動する人が報われず、疲れ果てて潰れてしまうことがないように発想を変えていきましょう、ということを言うんです。そうした方向から持続可能性を考えようとすること自体に興味をもったんですよね。

 

その会社のことを知るにつれ、「(人間や社会って)そう捨てたものじゃないな」という感覚がまた少し生まれました。

 

もとは大手の金融でファンドマネージャーをしていた人たちが立ち上げた会社だそうですけど。

 

 

西

そうした会社を立ち上げた動機って、どんなことだったんでしょうね。

 

 

新井和宏さんとおっしゃる方なんですが、病気になってしまったそうなんですよ。利益をあげるため、一分一秒を争い、鎬を削るような仕事に疲れて倒れてしまった。で、そのときに、坂本光司さんの『日本でいちばん大切にしたい会社』という本を読み、それに感銘を受けたというんです(僕も病気をした後リハビリ施設にいた時、たまたま坂本先生の本に出会い励まされました)。

 

小さいけれども、世のため人のためにがんばっている会社を大切にしたい。でもがんばり続けられるためには利益を上げられるようにしなければだめだ、という考え方です。身体的、精神的な大きな挫折のなかで、これからどうしようかと思い悩んでいるときに、その本と出会った。その考えに共鳴し、そういういい会社を応援する会社をつくろう、というコンセプトのもとに始めたそうです。

 

そういう会社はまだまだたくさんあるんじゃないか。そういう人がたくさんいるんじゃないか。そのことを、信じ続けられる感覚を持ち続けたい……という感じですね。


「伝統」を生かしていく思想

 

前田

道徳の問題で気になるのは愛国心の問題だと思うんですが、最近、日本のよさを世界に発信しよう、という話が多いじゃないですか。和食のよさだとか、伝統工芸のよさですとか。でもその「よさ」というのは、日本は特殊だとか、他の国よりも凄いだとかいうことに繋げて考えるべきではないんじゃないか。

 

たとえば「おもてなし」の感覚、「お互い様」という感覚、「もったいない」という感覚は、(日本独特の部分もあるだろうけれども)他の国・地域でも、形は違えどあるかもしれない。そうしたことを、信じてみようとする感覚をもっていれば、日本の価値を再発見するということが普遍性につながるんじゃないかと思います。逆にいえば、それがなければ閉鎖的なものになってしまう気がする。

 

 

やはり「自己了解」に結びつけて考えられることが大事だと思うんです。伝統文化に対しても、この工夫、この美しさの、こんなところに自分は心を動かされているんじゃないかということが自覚的に取り出せるようになると、そのよさはこんな所でも味わえるよね、というようにさまざまな場所から見出せるようになる。さらに、そうして自分の見出した価値を発信し、共有化しようとする意欲も生まれてくるのではないか。そういう形で展開できてこそ、価値があるものだと思います。

 

 

そうした感覚を、国際社会と日本の問題だけではなく、一人ひとりの生徒が、多様性を認め合い、共通価値を創造する教育文化を根付かせていくことに結びつけて考えていくことが大事だと思います。


 

西

「愛国心」というのは、左翼やリベラル派の人たちが嫌ってきたテーマですよね。ナショナリズムというものへの反感があり、「日本万歳」という感じで空虚に日本を持ち上げ、その価値を言い募ることに嫌悪を感じている人たちがいる。

 

そうした気持ちは僕自身にも残っているけれども、人が生きるということの連続性を考えると、地域の中には先人たちが大切にしてきたものや築き上げてきたものがあり、……確かに工芸品などは非常に繊細な感受性が息づいているものが多いですよね……そういうものは、他の国の人にとっても、心地よさを感じさせるでしょうし、そうしたものを僕たちはたくさんもっているわけですよね。

 

日本人の文化にしても、人類のつくってきた文化の一つなわけですが、そのなかに人類的にみてもなかなかよいもの、美しいもの、好ましいものがあったり、また、人類的ではないにせよ、地域でずっとお祭りをやってきて、そのなかで気持ちがつながりあうよさがあったり……そういうようなとらえかたが積極的に出てきてもよい時期ですよね。

 

 

すべてを「日本」に回収してしまわなくても僕はいいと思う。むしろ、地域から、直接世界につなげていくことだってできるんじゃないか。経済でも文化でも、そういうことをもっともっとやればいいと思うし、もうすでにそういう動きは出てきていると思います。そうした視点も併せて重要だと思いますね。

 

 

西

まったくその通りで、グローバルとローカルという視点からいうと、自分たちの地域を活性化しようするいろんな試みがあるけれども、その試みが、世界の他の地域と直接つながってしまってもいいように思います。そしてお互いに知恵を交換し合ってみるだとか。そういうグローバルなやりとりを通して、ローカルなありかたをよりよいものにしていこうとする動きが、いま前田先生がおっしゃったように、すでにいろんな場所で立ち上がっています。

 

もちろん、極端なグローバル化が地域のローカルなよいものを壊していく、という大きな動きも一方にはあるわけですが、その一方では、グローバルな視点から他の地域と知恵を交換したりしながら、自分たちの地域のよさを生かしていこうとする動きが生まれてきている。

 

風景と自治の関わりについて研究している私の仲間の一人に羽貝正美先生(東京経済大学・行政学)という方がいて、地方自治が専門なのですが……彼が中心となって、フランスの人口800人くらいの小さな町の町長さんと、ドイツのやはり人口800人くらいの町の女性の町長さんとを招いて、日本のいろんな地域(小規模の自治体)で活動している人たちと一緒に、それぞれ自治のためにどのような工夫を行っているかを交流し合うシンポジウムを企画しているんです。東京経済大学で2016年の10月に行う予定になっています。

 

 

それって、ネーション(国家)を通さない交流ですよね。

 

 

西

そうですね。ネーションも政治制度としてはもちろん重要だけれども、自治体どうしが直接交流を行っても、何も問題ないわけですよ。別に小規模自治体に特定する必要はないんだけれども、小規模自治体のほうが、人が力を合わせていろんな取り組みをしていることが、ある意味はっきりつかみやすい。それが見えてくるようになると、もう少し大きな規模でも同様の取り組みが見出せるようにもなるでしょうし。

 

 

前田先生や西さんがおっしゃったように、ローカルな対象こそまず基本になるものかもしれないですね。具体的な一つのものづくりだとか、地域での活動や関係づくりの場面を通して、「よい」「大切だ」と言われている対象の内実を確かめ、実感していく経験が持てれば、より抽象化されたレベルでも、その内実を吟味しながらとらえ直そうとする姿勢につながるでしょうし。グローバルな視野にたって、知恵や工夫を見出し生かし合おうとする発想をもつことにもつながると思います。

 

 

国を越えて様々な自治体が集まり互いの知恵を交換しあう、という活動が互いの差別、偏見などを緩和していく場所と空間になればいいな……と思いますね。

 

 

共に価値を吟味、共有し合える体験が何よりのベースになりますよね。西さんがおっしゃったように、学校って、先生方がその条件を整えることを通して、まずその醍醐味を知る場所ともなりうる。たしかに現実社会では、自らの言葉をてらいなく発し合うことが難しい場面も多々ある。しかし、条件さえ整えていけば、あのような愉しくかつ生産的な語り合いの場が必ず実現できるはずだ。そうした希望と確信を心に刻めるということは、間違いなく確かな「生きる力」となるように思います。

 

 

西

そうですよね。

それにつながることだと思いますが……戦後民主主義に対してはいろんな批判がありますが、お互い対等な立場から議論し合い、ああここは大事だねということを確かめ合ったり、一緒にものごとを考え合い、みんなで工夫していろんなものを生み出していくことの嬉しさを感じられる空間が、戦後民主主義の中で日本中に無数に出てきた。そういうことが、僕はあったんじゃないかと思います。

 

やはり風景、景観を研究している仲間と、今度長野県の中山道の宿場町の歴史をもつ妻籠(つまご)に行くことになっています。妻籠は60年代半ばに住民憲章を作って、宿場町としての景観を守りまたは復元しながら、それを観光資源として町おこしをすることを試みて成功した所です。

 

小林さんという方がその事業を成し遂げたキーマンなんですけれど、彼がこの事業のプロセスや自分自身の経験を語っている本があり(『妻籠宿 小林俊彦の世界』、普請研究第二十一号、1987年6月)、それを読んでみたら「公民館運動」のことが出てきました。妻籠には敗戦の時に疎開してきた文化人が何人かいたんですって。その一人はドイツ語学で有名な関口存男です。戦後まもなく、そういう人たちが中心となり、公民館で村人たちと、この村をどうしていくかいろいろ話し合ったり、勉強会をしたりなどの活動を展開したそうです。

 

そのとき「掟」があって、それは「人の話は最後まで聞く」ということ、そして「論じても激するな」というものだったそうです。いくら喋ってもいけれども、激してはいけない。感情的になって、相手をただやり込めようとするだけの発言はいけない。ちゃんと考えを伝え合うようにすることがいちばん大切。そういう意味の言葉を残したそうなんです、確か関口さんの言葉だったと思いますが、公民館にそういう語り合う文化があったわけです。

 

その後若い人たちは村から出ていったりもしたけれど、教員などになって村に残る人もいて、その人たちと小林さんは、この村をどうできるか、何がいちばん大事なのかということを、共に話し合い、考え合ったそうです。大企業を入れず自分たちの力でやらないと、結局企業のいいようにされてしまうからだめだなど、いろんなことを話し合った。そしてその集まりが拠点となり、さらに商工会の人たちも巻き込み拡大していき、自分たちの力で村の復興と再生を成し遂げる動きとなっていったそうです。いまも「妻籠を愛する会」としてその活動は続いています。

 

そうした「公民館運動」は全国各地であったのだと思うんです。アメリカは戦後日本に民主主義を根付かせようとしたわけですが、そのとき公民館を活用しようとしたんでしょうね。

 

 

因みに、昭和二十四年に社会教育法というのが制定されていましたね。婦人学級や成人学級も含め、公民館活動というのが起きてきた……

 

 

西

そういうのをたどっていくと、語り合い確かめ合ってともに方向性をつくっていくやり方を学んだ貴重な経験、という点で戦後の民主主義は大きかったんだな、とあらためて考えさせられます。

 

価値を吟味する経験がまず大切、と犬端さんが言ってくれましたが、そういう場面を、いろんなところで日本人もつくってきたはずなんですよ。幕末に維新を成し遂げた人たちも、藩校でがんがん意見を闘わせていたそうですしね。戦後民主主義の中にも、実はそうした経験が息づいていたんじゃないか。

 

 

なるほど。そういう戦後民主主義の振り返りは新鮮です、私には。いろいろ気づかせてくれますね。

「伝統」のよさを受け継ぎ育てていくとか、地域の活性化をめざす取り組みとかいろいろな経験が目指されていくわけですが、国際化と言われている今日において、それが価値吟味の経験でもあればその意義や可能性はすごいものですね。改めてしっかりと見つめていきたいと思いました。