教哲研第5回

よい授業の共通本質は何か


「学びの共同体」。その「哲学」はどう吟味されているのか

犬端

今回は、教育学者佐藤学さんの『学校を改革する』(岩波ブックレット)に目を通したうえで、佐藤氏の提唱する「学びの共同体」について考えてみよう……というテーマでしたよね。

 

この著作で端的に示されていますが、佐藤さんは「学びの共同体」の中心的なヴィジョンとして、「公共性の哲学」「民主主義の哲学」「卓越性の哲学」を掲げています。公共性の哲学とは、「公共」をキーワードに、学校という空間や教師という仕事を私物化せず、開かれた発想のもとで展開しようとすること。民主主義の哲学は、「他者と共に生きる生き方」として民主主義を定義したうえで、それを実現する場として学校と教室を営んでいくこと。そして卓越性の哲学は、ほかと比較して優れているかどうかではなく、その条件の中で常に最善の学びを実現しようとする姿勢をもつこと……というように理解しました。

 

そのヴィジョンはいいな、と思いますし、それを実現する過程の中で、聞き合う関係、対話的コミュニケーションを重視しようとする姿勢にも共感しました。

 

でも、その反面、「学びの共同体」こそが、世界基準で希求されている学校教育のあるべき姿なのだと強く主張する語り口に対して、ちょっと違和感をもつ部分もありました。

 

以前、滝澤さんと前田先生が「学びの共同体」を話題にしていたときに、同様のことを話していましたよね。主張としては共鳴できる点が多々ある。だが同時に違和感も……という感じだったと思います。

 

 

滝澤

いま、文科省からも、話し合いなどの活動を通して、児童・生徒の一人一人が主体的に考え学んでいく「アクティブ・ラーニング」が推奨されています。おそらく佐藤学さんは、それはもともと自分がずっと取り組んできたことの延長線上にあるようなもので、原理、メッソドとしては、「学びの共同体」のほうがより優れたものをもっている……、というスタンスで、今後ご自身の活動をより活発に展開していくのかな、と思います。実際に、それだけのものはもっているような気もするんですよね。そして、犬端さんがいまおっしゃったように、佐藤さんの「学びの共同体」による教育改革論には実践のヴィジョンと哲学がしっかりと提示されていますね。

 

 

西

そうですね。学校や教室を私物化しないという「公共性」は大切ですし、他の人たちとともに生きていく力としての「民主主義」が現代の私たちの社会での教育に必須であることにも共感します。そのつど本気で学びあおうとする「卓越性」も、教育の理念として大切だと思います。

 

佐藤さんは『学校を改革する』というこの本のなかで、これまでの教育と対比しながら、今後進むべき教育の方向を〝トータルに〟提示しておられます。これだけ包括的かつ統一的な方向性の提示は他にはないかもしれません。その点で、大変な力量のあるお仕事だと感じました。

 

その上で一つ気になる点を挙げるとすると、これまでの教育の中でも大事なことは行われてきたはずなんですが、それとの連続面ではなく切断を強調している点です。「この点はじつは昔から多くの先生方が配慮してきたものだけれど、それをあらためてはっきりさせたうえで、共有化していこう」という発想・語り口にはなっていないと思いました。

 

佐藤さんが提示されている方向は、いま話題のアクティブ・ラーニングと重なるものですが、アクティブ・ラーニングはまったく新しいものではないと思うのですね。その本質的なもの、一言で言えば、生徒の関心を刺激しつつ、生徒の自己・他者のイメージ、社会や自然のイメージの刷新につながるような学びを、ふだんの授業のなかで実践してこられた先生方は少なくないと思うのです。

 

佐藤さんはご自身の主張を完全に新しいものとして提示したうえで、極端にいうと「これを導入することで世界が変わる」というような口調で語っておられるのですが、はたしてそういう語り方でいいのかどうか。たしか、前田先生もぼくと同じような疑問を口にされていましたよね。

 

滝澤

ただ、前田先生自身が実践されてきたことと佐藤さんの主張には、重なり合う部分もあるのではないですか。

 

 

前田

そうですね。重なっているかもしれませんね。正確に言うと、自分の実践したことと重なるというより、もっとできればよかったということも含めて、ですね。例えば、考えあう授業ができたかとか、学びが成立している授業ができたかとか、ですね。

 

教師については、僕自身も、(教師が)学び合う集団になってほしい、ということを切望していました。それは20代のころから始まっていて……2回挫折しています。20代のころは、仲間どうしで授業を見せ合い、公開し合おう、ということをしたんですね。自分が言い出したことでもあるので、まず自分から公開するよ、と。けれども、「それはいいね」と言ってはくれたものの、次が続きませんでした。そうこうしているうちに、そのことに関してはちょっと冷ややかな先輩に、「校長に言われたの?」と言われたんです。それにカチン!ときて、やめてしまった。なんだ、それくらいでやめてしまうのかよ、という感じですよね。そこが僕の悪いところでもあるんですが(笑)。……若気の至り、といえばいえることでした。

 

それからもずっと、校長になってからも、自分たちを学び合う集団にしたいという思いはありました。自分自身で内省して、今日の授業はどうだったのか、自分が育てたい力を育てられたのか、ということを考え、みんなで話し合い、授業を互いに公開して、それを外部的にも公開して……ということをやってみたかった。1年やって、2年やって、外部からも教育学者の方をお呼びし、その意義を側面から説いてもらって……自分でも、これはこういう意味でやっていることなんだよ、ということを話してみたりしましたが、……結論としては失敗した、と思っています。これは、若気の至りでは済まない、文字通りの失敗であり、より傷が深いものでした。

 

一つには、「校長が言っている」ということ自体がマイナスになってしまう。僕の人望の問題も、あるんでしょうけど。意識的に自分は前面に立たないようにしても、なかなかうまくはいかなかった。

 

ただ、西先生が言ってくれたように、あのとき、自分の言ったことを聞いてくれなかった先生たちにしても、それぞれ自分なりの思いや考えをもって授業に取り組んでいたんだと思っています。そうした教育活動を、それはもう20世紀型だからだめ、とばっさり切ったうえで、自分の言っている教育こそが21世紀型、これこそが世界の新しい潮流だと主張するような発想は、僕自身にはありませんでした。

 

(『学校を改革する』での)問題点を一つ具体的に言ってみると、合意形成と話し合いに関するところです。改革のヴィジョンと哲学を共有していくためには、話し合いを通してはだめで、「活動システム」を通して実現していくしかない、ということが示されています。でも、僕としては、ヴィジョンや哲学を共有するための、合意形成こそがいちばん肝心な部分ではないか、と思ってしまうんですね。

 

 

滝澤

佐藤さんは、話し合えば話し合うほど先生どうしの仲が悪くなる、ともおっしゃっておりますね。だから話し合うよりも、活動システムとして展開していったほうが道は開ける……という主張をしている。

 

 

西

でも、そうすると、結局佐藤さんの考えに賛同する校長先生が、「学びの共同体」の発想に基づく学校改革を始めることを決めて、「これでやるぞ」というようにトップダウンで進めていくしかない、ということになりませんか。

 

 

前田

その方法や発想で本当によいのかということを、「それではできない」ということをも含め、考え、話し合っていくこと自体が僕としては大切なことです。それで、結果として挫折しましたが、頭ごなしに進めてしまうよりも、挫折したほうがまだよかったと思っています。これがよい、これでいこうよというものを、ルソーの言うような「一般意志」として、みんなが持てるようになるのには時間がかかる。けれども、そのプロセスをきちんと踏まえられてこその民主主義じゃないか、と思っています。

 

 

佐々木

佐藤先生の場合、自分の考えに共鳴する小集団を見つけて、それが成功したら同じ地域の別の学校にも展開されるだろう……という感じですね。前田先生がおっしゃったように、オープンにして共同の学び合いを教師間に展開していく、というのはよいとしても、どういうプロセスでそういう集団が形成されていくのかということが明らかにされてはいないように感じました。

 

 

犬端

学びの共同体の哲学、活動システムはこうなっています、ということをアナウンスしておいて、まずはやってみよう、そのうちその意義が分かるようになるから、という感じで取り組ませていく感じなのですかね。哲学や活動システムそのものを吟味しあうプロセスはなく、これはよいものです、だからこれをはじめます、やり方としては、こうすることが肝心です、という感じでやらせてみる……

 

 

西

そうなってしまいますね。

 

 

滝澤

ただ、この活動システムを有効にするためには、一つ条件がある、という言い方をしている。それは、対話的コミュニケーション、聞き合う関係、尋ね合うことにある、と。これは西さんが常々言っておられることと同じですよね。それを条件に入れなさい、と言っている佐藤さんだから、合意形成のプロセスはあるんじゃないかなぁ。

 

 

前田

ただ、公共性の哲学と、民主主義の哲学、卓越性の哲学……というように、「哲学」という言葉を使ってご自身のヴィジョンを語っておられるわけですが、それは、ものごとの本質をとらえ共有化していく、という意味での哲学なのかな、という感じがするんですよ。

 

 

西

これは、むしろ理念と呼ぶべきものだと思いますね。

 

 

犬端

理念と呼ぶべきものに、哲学という言葉を使っている感じがしますね。

 

 

前田

いや実は、そんなに言うなら、自分自身はどう考えるんだ、と自らに問うてみたんですよ。そうすると、「主体的」だとか「アクティブ」だとか、そういうものであればよい、という風潮に対しては、そうじゃないんじゃないか、と言いたい思いがあるんですね。僕の中には。「本質をつかむ」学習ができているのかということをまず大事にしたい。それを外さずに、教科の学習も、道徳の学習も、総合的な学習も、教科外の学習もやっていこうよ、と思っているところがあるんですよね。

 

そうした学習を通して、同時に自己了解を深めていくこと。それは決して別々のことではなく、表裏一体になったものですから。それをしっかりやっていくことこそが、大事ではないかと思います。(主体的、活動型の学習が)小学校、中学校は進んでいるけれども、高校は遅れている、という次元の話ではない、と思うんですよね。

 

 

犬端

活動型、問題解決型などという形式がどうかという話ではなく、「本質を吟味しあう」あり方が教室や学習の中に息づいているかどうかが肝心、ということですよね。

そう考えてみると、「こうすれば大丈夫だよ」という形で理念を提示してしまうこと自体に問題がある……といえますね。ではやってみようか、うん、うまくいったみたいだな、というような感じで(本質を問わずに)展開し、広がっていくという流れの中では、本質を吟味しあう感度や発想そのものが育たなくなってしまう。

 

ただ、このご著作の中でも、滝澤さんがおっしゃるように、聞き合う関係、対話的コミュニケーションの大切さについては再三触れられている。話し合いを回避し、活動システムを通して哲学……というか理念を定着させようとする方法と、それはどう矛盾なく結びついているのだろう、と思ってしまう。ここからだけだと、ちょっとそれが見えてこないですね。やはり気になります。

 

 

西

教師の学びの共同体の中で、授業を公開することだとか、また終わった後で反省会をすることですとか、いいことをおっしゃっていると思います。けれども、「それでは何を検討し合っていくのか」ということですよね。そう考えると、まず教科の本質に即した学びを……数学は数学らしい、歴史なら歴史らしい学びは何かということを検討するのが重要になるはずだと思います。そのためには、当然教科の本質とは何かということを、絶えず語り合い、確かめ合っていかれなければならない。

 

実際には、そうしたことに取り組まれているのかもしれませんが、この『学校を改革する』を読んだ限りでは、そうした本質論がないな、と思ってしまうところがあります。本質論を欠いたまま、「こうした形でやりましょう」という形態論が前面に出ている気がします。

 


 軸になるもの、それはやはり「自己了解」

西

そもそも、教育を考えるのに際しては、まず、子どもが生きていくためにどんな力が必要なのかということを押さえていくのが大事ですよね。この社会の中で、自分の生き方をつくれるようになり、人とかかわり、共同的な生き方をつくっていけるようになるためには何が必要なのか、ということをまず考える。そのうえで、学校での学びがそれとどう関わっていけばいいのか、ということが問われていかないといけない。

 

そこには、時代を超えて共通なことや、今の時代の中で特に強調しなければいけないことなど、さまざまなレベルで検討するべきことがあると思います。それを踏まえたうえで、それではこれについてはこう考えよう、それを実現するためにこうしていこう、というように内容を吟味していくのが大切なのではないか。……そういう考え方の道筋が、あまりはっきりとは示されていませんね。

 

確かに冒頭の部分では、21世紀の知識基盤型社会に向け、学校教育でプロジェクト型の授業を展開し、それに対応できる力を得ていくことの重要性が語られている。また、多文化共生社会、成熟した市民社会の担い手として、コミュニケーション能力をつけなければいけない、ということが示されてもいる。だが、それを踏まえたうえで、教育や教科の本質をどうとらえ、どう実践に結びつけるのか、という内実の部分にはあまり触れられていない。授業形態をどうするのか、というような形式に関する話がほとんどですね。

 

聞き合う関係をつくる大切さということには、もちろん同意しますし、創造的なジャンプの学びがあってこそ、基本的な内容が腑に落ちるようにわかる、ということなど、なるほどと思うところもたくさんあるのですが。

 

 

滝澤

この教哲研では、例えば「歴史を学ぶとはどういうことか」ですとか、「聞き合い、語り合う関係はなぜ大切なのか」ということを、それこそ哲学的に掘り下げてきましたよね。その部分があまり感じられない……とうことはありますね。

 

 

西

そうですね。それに、「成熟した市民社会」というのであれば、「市民性とはそもそも何か」ということをまず考えることが大事ではないか、と思えます。

 

 

犬端

今の時代状況の中で、「市民教育が大切」「公共性が大事」ということを主張したい気持ちはよく分かります。でも、その背景に、前田先生が、それをキーワードにしたい、といつも言ってくださっている「自己了解」の感度が伝わってこない。一人一人がそれぞれの生、それぞれの実存にたったうえで、どう関係を生き、社会を生き、「公」という概念をつかんでいくのか……という発想があまり見えてきません。そこがいちばん違和感を抱く部分だと思います。

 

「公共性」は確かに大事なことだとは思います。でもそうはいっても、「公」や「関係」へとまっすぐ向かっていくことのできない環境、生の条件におかれてしまっていることだってままありますよね。

まずは自分自身の立ち位置からものごとの意味や価値について考え、そのうえで互いの考えをたずねあっていけるような機会を得ていく。そうした営みを通して、この部分は確かに共有できるし、自分自身にとっても共有していくのが大切なことだと実感できる経験を重ねていく。そのプロセスそのものが、関係性の感度、公共の概念を実のある形で得ていくためには不可欠のものじゃないか、と思うんですよね。

 

自己の生、自己の実存のみに捕らわれ、閉ざされてしまうことはよくない、とは思います。自分の考えが何より正しい、これこそが真実だ、というように凝り固まってしまうことはまずい。でも、自己という場所を足場にできない限り、深い納得が得られる契機が訪れることはあり得ないと思います。ある考え方にこだわっている自分を、人との関係の中で反省的に見直し、刷新していけるようになる。その経験の中で、ものごとの共通本質ははじめて得られていくのだと思っています。

 

公共という概念もまさしくそうしたもので、自分の実存につなげ、考え、共有していく経験を抜きに、それは決して生きたものにはなりえない。でもそれがいきなり所与の価値として、出発点であるかのように語られてしまっている印象は受けてしまいますね。

 

 

佐々木

今回、「学びの共同体」の実践編を併せて読んでみて思ったんですが、佐藤先生のカリスマ性が強く、原理原則に関する批判や反省点、問題点は出てきていないと感じました。はじめに理念ありきで、示された形に沿って進んでいったら、そこにうまく到達できました、という報告がなされている感じがします。公共性がそもそもなぜ重要なのか、民主主義の本質をあらためて考えてみると何なのかという議論は、佐藤さんからも、実践をなさった先生方からも出てきていないと私には思えました。

 

もちろん、実際のところは、それがすでになされたうえで、先生方はそれぞれの実践に取り組まれているのかもしれません。でも、その過程がまったくなく、佐藤先生の理念が最初にありきということだとすると、西先生、前田先生がおっしゃるように、しだいに形骸化してしまい、そもそもその意義や目的はなんだっけ、ということになってしまうおそれはあるように思います。

 

 

西

話し合うことを通して知識的な刺激を受けるということも確かにありますが、自分の考え方、ふだん意識していないことを自覚化する機会がそこからは生まれますよね。他者了解を通して自己了解が浮かび上がってくる。いちばん大切なのは、語り合いのなかで自己了解を育て合っていくことなのだと思うのです。語り合うなかで、一人ひとりの生きる姿勢――ルソーは『エミール』の中で、名声や富でもって自分を測るのではない、自分自身の生きるさいの価値観を大切なものと考えていました――がつくられていく。それが大切なことだと思うんです。

 

教科はいろいろありますが、様々な場面や主題を通して互いの自己了解を出しあい、他者了解を深め、そこからふたたび自己了解を深めていく。そしてそこからそれぞれが生きるさいの軸をつくっていく。そういうプロセスがなければ、自由な社会を生きるということ自体が、かなりしんどいものになってしまうだろうと思います。

 

そして、生きるうえでの自己了解を育てていくときには、自分自身の実存の問題も直面しなければならないテーマとなってくるわけですし、自分が社会とどういうかかわりをもてばよいのか、自分と公共性との関わりをどう理解するのかというテーマも、そこに必ず含まれてきます。……そういうことをずっと考えていた者からすると、やっぱり自己了解という柱が通っていなくてはならないと思うのです。佐藤さんの「学びの共同体」では制度設計がなされてはいるのだが、どうすればそれぞれの自己了解をともに考え育て合っていくか、という発想が不足しているように思えるのですね。もっとも、実際の授業のなかで、それぞれの先生方がその点を大事にされているということはあると思います。ですから、あくまでも、佐藤さんの表明しているかぎりでのことですけれど。

 

 


「本質観取」。それはどんな授業?

犬端

それこそ、形式はどうであれ、本質を吟味、検討していく営みこそが欠かせない、そのプロセスを通して深く納得できる機会を得ていくなかで、関係や社会をよりよく生きていくための力として、そこでの学びははじめて身についたものとなっていく。つまり、本質を吟味、検討しあうというその一点さえ大切にできれば、形式はどうでもかまわない。……そんな発想を拠り所にできるほうが、現実に根差したうえでの展開力があるようにも思うんですよね。

 

 

西

そうですね。形式としては先生一人が話をしていて、たまに生徒の意見を確認するだけの授業であっても、内実としては、一人ひとりが、ここでの本質って何だろうということを考え、それが自己了解にもつながり、とても豊かな学びになっているということも、全然ありうることだろうと思います。

 

実は僕は、この『学校を改革する』を読むと、教員はもっぱら、生徒の発想を取り上げたりつなげたりしていく「ファシリテイト」の役目をすることになっていると思います。しかしときには生徒の前に立ってしっかり話す、つまり講義するということがまったくないなら、先生としてはちょっとつまらないかな、と思ってしまったんですね。

 

ここでは「卓越性の哲学」という言い方がされていますが、先生方は授業のデザインを吟味していくのでしょうね。この教科では子どもたちにこういう力をつけてほしい、こういうことを考えてほしい。こういう問題をめぐって自己了解を深めていってほしい。そんなことを吟味したうえで授業設計ができれば、そこで実際に展開される様々な場面を通して、新たな気づきや考えを得ていく充実感を教師ももてるでしょうし、自分が講義しなくてもよほどこのほうがよかった、と思える場面だって出てくるということは分かります。実際僕も、大学の授業ではファシリテイターとしてやっている時間も多いですから。

 

でも、「たまには先生にもしゃべらせてよ」という気分も、僕には少しあるんですよね。自分色に生徒を染めてしまうのは違うな、という感じはもちろんあります。むしろ、「このことは僕はこう考えてきたんだけど、君らはどう思うかい?」という感じで、一人の考える者として、これまで人生を生きてきた一人の人間として話しかけたくなる。それがまったくないと、自分がつまらなくなってしまうかも、ということは正直思ったりしました(笑)。

 

 

犬端

先生自身も楽しく授業に参加できる、という発想があってもよいんじゃないか、ということですね。教師は決して前面に出てはいけない、自分の存在を消して子どもたちの主体性にゆだねなければいけない、ということが義務のようになってしまうのは、よくないんじゃないか……。それはたしかにそうですよね。先生自身が楽しめる、ということは、学び合う空間を創出するうえでも、決してマイナスにはならないんじゃないかと思います。

 

 

佐々木

西先生ご自身が、大学で「本質観取」の授業をするときって……どういう授業の進みになるんですか。

 

 

西

最初に、どうモチベーションを広げられるか、ということを大事にしています。たとえば「なつかしさの本質」という話題であれば、「なつかしい」という感覚って、なんか微妙で、なかなか口にして言えないようなことだよね。その微妙さを、うまく言葉にできれば、おもしろいと思わない、それをやってみようよ……などとまず投げかけてみます。

 

それから、いきなりなつかしさとはこういうものだ、と語り合うのではなく、なつかしいと感じる体験をまず具体的に思い出して、それをメモしてみてくれない……ということを言います。次にそこから、なつかしいと思うときの感情にはどんな特質があるか、とか、なつかしさの向かう対象にはどんな特色があるのか、などの「なつかしさ体験に共通する特質」を拾い出してメモしてもらいます。

 

それから、4,5人くらいのグループをつくり、「互いの体験を話し合って、共通する特質を挙げてみて。それから、それらの特質がどんなふうにつながっているのかを考えてみてください。40分たったら戻ってきてね」という感じで放ちます。そうすると、池の端で座って話し合ったりとかするんですよね。

 

それで戻ってきてから、それぞれのところから報告をあげさせ、お互いに聞き合うんです。ぼくから「こういうのはどうだったの」と突っ込みを入れたり、他の人たちから「すごくおもしろいね、それは考えていなかったけど、大事なことだよね」というような反応があったり……それぞれの報告を聞き、他の班がそれに反応し、僕からもコメントしたり、などして進めていく。そんな感じですね。

 

 

滝澤

先生の役割って大きいですね。先生が価値づけたり、整理し直したり、言葉をちょっと選び直してあげたり、などするわけでしょう。

 

 

西

そういうことは、していますよね。

 

最後に感想を聞いてみると、「なつかしいということに関して考えたのははじめてだけれども、話し合ってみると、互いの感じ方にかなりの共通点がみえてくる。これにはびっくりした。今までこんなことができるなんて、思ったこともなかった」というような反応が返ってきたりします。それもおもしろいですよ。

 

これ考えるのっておもしろくない、考えてみようよ、という前振りをしたうえで、現象学的な方法――体験を出し合う、それらの共通項を出す、共通項の関連を考える――というような手続きを踏んでみると、ただ話し合ったりするよりも深まってくるよ、と言って、あとは解き放つ。そんなスタイルですね。

 

 

佐々木

そういうことが教科でも再現できると、おもしろいかもしれないですね。

 

 

西

本質観取の場合はテキストがいらないので、自分の体験をどうやって言葉にするか、ということが肝心になりますね。

「ここからここまでテキストを読んで内容を理解する」というタイプの授業もあるわけですが、その場合には宿題としてある範囲までを読んできてもらいます。そのさいには、授業では「問題」を出すんです。例えば、文中のなかから一つ、キーになる文章――だいたいは抽象性の高い概念的な文章ですが――を僕が選びだす。そして「ねえ、この箇所で筆者が言おうとしていることは、どういうことなのか、具体例をお互いに出し合いながら確かめてきて」というふうに出すわけです。それから、またグループを野に放ち、また集まってきて話し合う。およそそういう形で進めていきます。

 

「問い」の設定は大切かもしれません。僕は、これをめぐって互いの感度やアイデアを出しあったり確かめあったりできるかどうか、そこに深まりが可能か、というようなことを念頭においてやっています。これはいろんな教科でも同じようなやり方が可能かもしれませんね。もっとも、知識や技能の訓練・定着を目的とする場合には、これはつかえないと思います。

 

 

滝澤

グループでやるがゆえに、言葉の編み上げができる、という感覚をもっているわけですね。

 

 

西

それはありますね。

 

 

滝澤

一人ではおよそ無理があるでしょうから。

 

 

西

そうですね。

 

 

滝澤

学びの共同体ですよね。それはまさしく。

 

 

西

そうなのかもしれませんね。言葉としてはそう言ってもらってもぜんぜんかまわないのです。……僕のやってきたかたちですと、大体5人くらいでやっていきます。7人だと、もう多いという感じがします。

 

 

滝澤

この本(学びの共同体グループの実践例)では、全教科の実践例があり、学びの共同体としての成果が書かれているわけですが、やはり、一人ではおおよそできるものではなく、4人グループで、コの字型に机を並べて学習させていくことを一つのポイントにしています。そのグループでの学習を通して、教科書のレベルをまず学び合い、次に教科書を超え出たジャンプの段階を試みていく。その結果、子どもたちが二次関数を理解した、という成果などをみてみると、その成果は簡単に否定できない、ということは言えると思います。

子どもたちや、保護者たちの感想文を見てみても、それなりの確かな学習はしているのではないのかな、という気が正直するんですよね。

 

 

西

それぞれの子どもたちの「気づき」は言語化されているのですか。

 

 

滝澤

それは大事にされていると思います。

 

 

西

それは大切なことですよね。

 

 

滝澤

それが彼の言うところの卓越性というんでしょうか、オーセンティックなものの証というか……それがあるとしたら、それはそれで、学ぶところはあるのかな、という気がするんですよね。

 

ただ、佐藤さんが実存的なものですとか、自己了解と他者との関係をどこまで意識しているのか、そこがみえてこないと、というところは確かにありますね。

 

 

犬端

それと、ご自身の「哲学」やシステムそのものを吟味検討し合う機会、公共性や民主主義の本質を語り合えるような場面が果たしてもたれているのだろうか、ということですよね。

もし、そうした問題意識や発想をもった方たちが、「学びの共同体」の実践を展開していけば、それは実りが多いものになると思います。問題は、その発想があるかないか、ということになりそうですね。

 

 

西

そうですね。同僚どうしの関わり方の問題がありますが、そちらは措いておくと、生徒間の語り合いでそれぞれの気づきとそれの交換を大事にする、ということが一貫しているとすれば、とても有意義ですね。

 

 

滝澤

あと、教師の「居方」……つまりどういう立ち位置で授業に臨み、展開していくのか、ということを書かれている先生がおられるんですが、これに関しては佐藤学さん、『風姿花伝』にみられる技術というか、能の演者と教師との関係、そこに見出される共通性のようなものを「居方」という言葉で論じています。彼はいろいろ授業実践を観察した結果、大学4年生で教育実習に行ったときの実習生の居方と、十年選手の居方、ベテランの先生の居方とでは、立ち方や子どもたちへの接し方が違うんだ、と言っている。これは、身体の特色から解明した授業の方法論であり、たいへんおもしろいものだと思います。

そういう伝承していくべき技術を、この共同体で勉強なさっている先生方は体得しているとしたら、その意義は否定できないな、とも思います。

 

 


アクティブだが、アクティブではなかった授業

西

それはわかります。ただ……どうでしょうか、先ほども少し話に出たように、先生が教室で歩き回りながら教えているというスタイルの中でも、実はそれぞれの生徒の気づきや問題意識を誘発していることだってあると思います。問題は、授業形態ではないと思うんです。そのことはもうちょっとはっきりさせたほうがいい。

 

それぞれの子どもの自己了解や他者了解が刷新されたり、気づきが生まれたり、そのことが、教科としての本質をとらえていくことにもつながり、生き方の軸がつくれているのであれば、形態はいろいろあってよいのではないか。あるときは講義形式のほうが有効なときだってあるかもしれない。

 

 

滝澤

たしかに、メソッドとして一元化し絶対化しようとすることはよくないと思います。大学でもメソッドを一元化していく動きが進んでいますね。アクティブ・ラーニングに取り組むとか、ルーブリックの作成と活用、ですとかね。文科省の見解に従ってそうしたことを展開し改善しようとする動きがあります。ただ、メソッドそのものを気にするあまり、それが果たして一人一人の気づきを大切にしたり、自分自身の場所から考え深めていくことを大切にしたり、という内実を得ていくのか……ということへの検討が、ないがしろにされてしまうことはありますね。

 

 

前田

自分自身の過去の授業を振り返ってみてみると、1年間まあまあよかった、という授業として、二つ思い出せるんですよ。逆に言えば、19年授業やって二つだけかよ、とも言えるんですが。(あとは、今日はわりと手ごたえがあったという程度で、ああ今日もうまく展開できなかったなあ、が圧倒的に多い)。

 

一つは一斉授業の世界史。もう一つは、選択政経の授業です。後者は、少人数で行いました。今日のテーマはこれだよ、と投げかけ、みんなで意見を出し合うというスタイル、自分が指導しているというより、自分もその中の一人として、同じように意見を言って話し合いに加わってというものです。それはもちろん充実したいい時間だったし、生徒たちも、いい時間だったと思ってくれていたらしい。それはわかりやすい。

 

 

滝澤

生徒主体の授業、生徒自身が考える授業ということでいえば、後者のほうが形としてもわかりやすかった、ということですね。

 

 

前田

そうですね。でも、40数人に対しての一斉授業の世界史のほうも、それなりによかったように思うんです。例えば、昼休みなど空き時間になると、生徒が質問に来たんです。質問に来ている生徒が複数たむろしていて、そこで待っている間にも議論をしていた。前田さんこういうこと言っていたんじゃないか、いやそうじゃないよ、みたいなことを互いに言い合っている。

 

僕には落語家のような話術はありませんし、なんであのとき、そういう授業ができていたのかな、と振り返ってみると……。試験では細かいことは聞かず、本質的なことしか聞かなかった、とかも大きいですけど。

 

 

滝澤

それ、通常の授業ですよね。教科書があって、ノートがあって、先生が用意したプリントをもってきて、というような……。

 

 

前田

そう、ここ(学びの共同体)で否定されている方法です。

 

 

滝澤

先生が圧倒的に話す、という。

 

 

前田

そうです。

 

 

滝澤

それにもかかわらず……

 

 

西

なるほど。分かってきました。僕自身、これまで哲学や現代思想の授業でうまくいった、と思えたときは、思想家や哲学者が問題として取り上げていることを、これって、今の僕らの問題でもあるよね、というように、学生たちがちゃんと自分の問題としても考えられるように提示できていたと思うのです。そうしたときに、すごく反応を返してくれる。「これに対して、ルソーの場合はこうした答えを出したんだよね。これでいけていると思う?」と問いかけてみると、「どうかな……」という反応が返ってきたりする。そうした問題の共有化のようなものができたとき、学生の問題意識と、授業で扱おうとした哲学者の思想とがつながったとき、講義でもビビットな反応が返ってくるようになる。

 

おそらく、前田先生の「世界史の一斉授業」でも、もしかすると、そういうことをされていたのではないでしょうか。

 

 

前田

佐藤学さんの言い方を敢えて使うと、学びが成立していたんだと思うんですよ。自分で言うのもおこがましいですが。たとえ机をコの字の並びにしなくても、一斉授業の場合もそうした学びが成立した(と僕は思っています)。

 

それは、西先生がおっしゃったのと同じことだと思います。実は、そのとき僕は世界史に関して素人だったんですね。これはまずい、と。いや、学生時代から世界史は好きだったんですけれども、かなり焦点を絞らないとだめだって、まず始めに思ったんですね。それで、現代につながる、日本につながる、結局自分につながる歴史の出来事の意味は何か。そこだけに絞ってやろうとした。

 

 

西

なるほど。

 

 

前田

そこだけに絞ってやろうと思って……、2か月たち、3か月たったら、自然と学ぶ集団になっていた。「共同体」になっていたかどうかは分かりませんが。

 

 

佐々木

問題を共有し合える集団というのは、コの字型と決まっているわけではなく、ときには一斉授業であるからこそ、問題が共有し合える場面というものもある。

 

 

西

ポイントはそこですね。

 

 

滝澤

メソッドというのは選択の一つとしてあるべきもの、くらいの考え方のほうがいいということですよね。

 

 

西

現代とか、日本とか、究極私の生き方だとか……広い意味での自己了解、自分自身の生きることへとつながるところへと教科を結びつけた、ということが自ずとアクティブな学びを生み出しているわけですね。そこが要ですよね。

 

 

前田

でも見た目は全然アクディブではなかったんですよ。

(一同 笑)

 

 

佐々木

発言したり話し合ったりしたほうがいい場合と、座ってじっと考え込んでいたほうがいい場合が、それぞれあると思うんですよ。

 

 

西

そう。そういうときでも頭のなかで考えがずっと動いていることってありますものね。

 

 

前田

質問に来る生徒たちには、「腑に落ちたい」という思いがあったんですよね。で、授業のあと、職員室にやってきて、大体わかるんだけれども、先生あれはこういうことなんだよな。と話しかけてきたりするわけです。いや、そうじゃなくてこうなんだ……。ああそういうことか。……そんなやりとりが、ずっと続いていきました。

 

 

犬端

触発されている感じなんでしょうね。前田先生の姿そのものに。前田先生が世界史という話題を通して、ご自身の自己了解を深め、広げていくという具体的なサンプルを示されており、そのあり方そのものに共振、共鳴していくということは、あるように思います。

 

 

西

ああ、なるほどね。

 

 

滝澤

先生自身が自己了解をめざしているということがなければ、触発を受けることもない……ということですか。

 

 

犬端

少なくとも、大きな刺激にはなりますよね。先生の考える姿そのものを通して、その話題の切実さや面白さ、さらには分かることの喜びが実感されていくということが、あると思います。

 

 

前田

ええ。そういう感じかもしれませんね。

それに、世界史って、ページ数だけじゃなく、出来事の数がもの凄いんですよ。あの限られた何十時間の中で、自分自身が話をするとしても、何に焦点を当てていくのかということが問題になる。大きな出来事ばかりを扱えばいいというわけにはいきませんし、なんでそれを取り上げたのか、それがはっきりしないとダメです。あのときは、それが、毎時間はっきりしていたんですよね。だから、こいつは本気で考えてくれているんだな、ということが分かってもらえたんだと思います。僕がそう思っているだけかもしれませんが。

 

 

西

先生が、教科書に書いてあるから教える、というだけじゃだめなんですよね。

このことをこの子たちに考えてもらわないといけないんだ、というそこが肝心で、それが明確に持てていたのですね。すると、子どもも本気になってくる。伝わるんでしょうね。聞いている人たちには。それは本当に大事なことですよね。

 

大切なのは形態ではない、ということは、やはり重要なことですね。大事なことはそれぞれの子どもの興味や関心、そして自己了解や問題意識に結びつけ、それを賦活したり、刺激したりする、そうした学びをつくれるかどうかということ。そこに命があるんだと考えれば、そっちのほうがずっとシンプルな原理になりますよね。

それをどのように行うのか、ということに関してはそれぞれが選べるし、今回は講義でいこう、今回はグループの学習でやってみよう、というように工夫もできる。

 

 

犬端

そうですね。それに、そうした発想に立てたとき、形としては様々違っているけれども、それぞれ真摯な思いで授業に向き合い、子どもたちに向き合ってきた方たちの問題意識につなげたうえで、教育の共通本質を得ていくということが、はじめて可能になるようにも思います。