第4回 「自治」からの可能性について
滝沢
この研究会のテーマである「教育の本質を考える」ということですが、実は僕自身にとってはとても難しいことなんです。どこからどう掘り下げていけばいいのかということが、なかなか見えてこないままでいる感じがしています。
ただ、前田先生がこのHPで書いてくれたエッセイ(「共有価値を共につくる」)を読ませていただくと、僕にとって気になるフレーズがたくさんあります。それこそ教育の本質につながる、大事なことを書いてくれているな、という直観があるんですよね。
西
そうですね。本質を捉えるのは難しいなあと感じる方は多いと思うんです。とくに、教育の本質がどこかにどかんとある、とイメージしてしまうと、なかなかそちらに行けなくなってしまうところもあるかもしれません。
でも、教育という営みがあり、多くの人がそれに関心を抱いている現実はあるわけです。そこには、学ぶ側もいれば、教える側もいて、親の立場もあって、それぞれの立場からみんなずっと教育に関心を抱いている。人々の関心があり営みが続いてきたということには、必ずそれなりの理由があるわけですよね。そのことを、あらためて見つめ直してみたいし、それは言語化できるはずだ、というのがまず一つ僕の思いとしてあります。
あと、もう一つには、教育については百人いれば百人それぞれの意見があるという面がありますが、いろいろ考えはあるにせよ、「ここは教育に関してまず大事だよね」ということを共有できることが大切ではないかという思いがあります。それをはっきりさせたいし、できれば提案していきたい。
何が大切なのかがわからないと、「学びからの逃走」という言葉もあるように、子どもたちにとっては学ぶことの意味がはっきりせず、動機を見いだせなくなってしまう。先生たちにしても、「これが教育の核心にあることだ」ということを体感はしていても、自信をもってその内実を語ることができない。もちろん自信をもって実践している方もいるのでしょうが、それを独善的なものではなく、多くの人が賛同しうるものに練り上げていけるように話し合い、考え合っていける場面をつくるのが、やはり大事なことじゃないかと思います。
でも、いま滝沢さんが率直に言ってくれたように、「教育の本質ってなんだろう」と、いざ構えて考えようとするとさっぱりわからなくなってしまう、そういうことは確かにありますよね。
最近勤め先の大学(東京医大)で、看護学科の学生向けの「探究の技法」という授業で、自由をテーマに現象学の本質観取を体験させてみました。そのとき感想として出てきたのが、やはり、「自由ってなんだろうと正面から考えようとすると、ますますわからなくなってしまう」ということでした。でも同時に、「自分自身が自由を実感した体験を振り返ってみると、そこから糸口が見えてくることが分かった」という感想も出てきました。
そのように、実感を伴った体験だとか、ないしはその言葉をどういうとき口にしているのかということを、まず振り返ってみることからスタートし、そこから共有化しうるところを探していくことが、本質観取の基本の方法としてあると考えています。
西
で、そういう感じで教育の本質観取をスタートしよう、ということなんですけれども……
せっかくですから、前田先生のエッセイから始めてみましょうか。
(『「共有価値をともに創る」②自分のため人のために学ぶ』参照 )
前田先生は、なぜ生徒たちに、会長、副会長候補者を出せと迫ったのか。そのあたりからまず聞いてみたいなと思います。
前田
まず「自治」という言葉を、教科書の用語として教えるんじゃなくて、体感できるようにしなくてはだめだ、という思いがあったんですよね。
西
前田先生は、社会科の先生だったわけですが、自治は大事なんだ、生徒に体験させなければいけないんだ、という思いがあったわけですか。
前田
そうですね。究極のところ民主主義の根幹にあるのは原理的にいえば自治だろう、と思っていました。一社会科の教師として、ということだけではなく、もっと広く、教師としての基盤として、そのことを生徒に「ああ、こういうものか」という感じで体感してほしいと思っていました。
西
自治というものが、教育において非常に重要なものなんだ、ということを確信しておられたわけですね。
前田
それはそうですね。あの当時からそうだったし、何十年たっても変わらないところをみると、自分としては確かな、理念のようなものなんでしょうね。
西
それは、どうしてでしょうか。将来何々になるためにこれこれの技能が必要だよ、ということよりも先んじて、まず、どんな子が生きていくためにも自治の経験、つまり互いの間に自治的な関わりをつくれるのが大切だ、ということを直観されていたと思うのですが……なんでそこまで大事なの、と聞かれたとしたら……
前田
そうですね……何なんでしょうね。
実はそういう僕自身、高校時代には「自治」という言葉にやや距離を置いてしまったことがあるんです。高校のとき全共闘の高校版みたいな運動が吹き荒れていて、いちばん激しく活動していたのは一学年上の人たちでした。ご存知のように、彼らは異議申し立てをしていたんですよね。
西
高校の先生たちに対してですか。
前田
そうですね。バリケードを組んで、先生や学校に対し、自治を求め異議申し立てをしていました。それに対して、僕は賛成しながら反対しているようなところがあったんです
西
言っていることはいいけれども、やり方がこれじゃあな……という感じですか。
前田
簡単に言うとそういうことですかね。「ただ異議申し立てすればいいのか」という反感を抱いていましたね。この学校という空間をただ一時的に占拠するのではなく、この先みんなでどうしていくのか考えることのほうがよほど大事なんじゃないか。そういう自分なりの問題意識はあったように思います。
それで、運動を指導していた人たちや賛成していた人たちから、敵視まではされませんけれども、「お前はどっち向いているんだ」という見方はされましたね。
西
敵なのか味方なのか、というのがそういう人たちにとっては大切なことで、「お前どっちなんだ、はっきりしろよ」みたいに言われてしまう。
前田
それでそのとき、全校集会が開かれました。それは先生が訓示する形ではなく、生徒主導のもと行われた会でした。そこで、「発言してください」と後輩たちから盛んに頼まれました。何を期待されていたのかというと、今思えば、常識的な自治の姿勢から、言うべきことを言ってほしいということだったんですよね。
だから余計に運動の主導者たちは、「あいつは何なんだ」と思ったでしょうね。でも、そのときの多くの生徒たちからの拍手は、ふだんは黙っているけれども、僕の意見を支持する人たちも多くいるんだな、ということを感じさせてくれました。
西
確かに異議申し立てばかりだとね……。どうやってこの場所を一緒に作っていくのかということのほうを考えないといけない、そういうことをおっしゃったわけですね。
前田
そうですね。
僕自身も中学校では生徒会活動をしていましたし、高校時代でのこうした体験や、大学で政治ってなんだろうということ勉強することを通して、やっぱり自治が大切だな、という直観をもつようになったんだと思います。同時に、それは知識を解説するだけでは到底伝えられるものではない、生徒会や部活や、何もかも含めて体験させていかないとだめだよな、という感じをもっていたように思います。
それで挙句の果てに、エッセイに書いたような無謀な行動に走ってしまったのではないかと……。
西
いや全然無謀だとは思いません。なるほどね……
滝沢
エッセイを読んで予想していた以上に、前田先生の高校時代と大学時代の姿が、この実践につながっているんだな、ということが分かりました。
僕は地方都市の出身ですが、地元ではいわゆる進学校と言われる高校に通っていました。そうすると、生徒会の会長や委員長を率先してやっていくような人たちと、いわゆるノンポリの人がいて、僕は典型的な後者の部類。できれば高校の集会にも出ないで、バイクに乗って早く家に帰りたい、というようなタイプでした。受験のことを考えていて、政治的なことはあまり考えないようにしよう、と。そういうタイプの人も高校時代にはけっこういたように思うんです。
ちなみにそのとき生徒会でがんばっていた方々の中には、いま、地元で弁護士でがんばっていらっしゃる方もいます。ある意味ずっとそうした問題意識がつながっているのかもしれないですね。
西
まっとうした感じですかね。
滝沢
そうですね。で、僕らノンポリたちは、そのままふらふらっと大学に入り、学生運動が華やかな時代でしたから、そういう人たちの語る社会正義や自治などに触れ、自分ももっと問題意識をもたないといけなのかな、という思いをもつことはありましたが、運動に積極的に関わろうとはしませんでした。そうした自分の体験と比較させていただくと、前田先生は運動に関わるか関わらないかというのとはちょっと違った次元で、自治という問題にずっと向き合ってきたんだな、というように感じました。想像以上でした。
西
自治はとても大事なことだということには、僕もまったく共感します。ただ実際に、人が自分たちの場所をよりよいものにしていこうと自治的に動こうとするとき、いい形で展開すればよいのだけれども、厳しい意見対立が生まれたり、党派的に割れたりなど、いろいろなことが起きますよね。
前田先生は少し上の世代の人たちが、党派的に争い合うところを見てきたわけじゃないですか。そういう中で、人によっては集団で何か行うことへの無力感を持ったり、結局何もできないんじゃないかと思うようになったりした人もいると思います。
それで、生徒たちに自治的な活動を体験させようとするとき、党派的にならないようにすることだとか、風通しをよくすることだとか、そんなことに関してアドバイスすることは考えましたか。
前田
いや、考えていませんでした。
西
とにかくやってみろと。
前田
そうですね。そのときは、まず体験させてみることが大事、というような思い込みのようなものがあったんでしょうね。
西
もめ始めたら、とことん話し合って考え合えばいいじゃないか、と、そんな感じですか。
前田
そうですね。一種の楽観主義があったと思います。自分自身は凄まじい党派的対立を見ていたのに、そんな楽観主義が自分の中にどうして生まれたのか、よくわかりません。
あのころ、浅間山荘事件もありましたし、すごいものを散々見てきたのに、なんでそういう素朴な気持ちが残っていたのだろうかと……
滝沢
僕も、ヘルメットが校舎の裏側に転がっていたり、授業をやろうとする先生に向かって学生運動のリーダーが、「授業を中止して自治会のほうを優先させろ」と詰めよったりしている光景を今でも覚えています。
でも、前田先生は高校の先生になったときに、自分自身はそうした経験をしてはいるものの、生徒たちに対しては、とにかく自分の想いを語り合わせたいし、そこを軸にやっていけばいいんだ、という確信があったわけですか。
前田
そうですね。全然指導しようとはしていませんでしたね。
滝沢
子どもたち自身が自分たちでそれぞれの思いを束ね、学校に要求していく姿をつくっていこうとしたという感じですか。
前田
自分たちで調整できるところは自分たちで調整していましたよ。
例えば部活動で、今期はいくらの予算が欲しいという要求がそれぞれの部から出てきますね。それを調整するのは生徒会の仕事です。そういう利害に関わることから、行事をこういうふうにしていこう、それでいいか、というみんなの合意を得るところから、いろいろやっていました。それに対して、僕は大した指導をした記憶はないです。
西
上の二つの学年の生徒たちがしらけて生徒会活動からそっぽを向いていた、というお話でしたが、生徒会を先生から無理やりつくらされて「お前やれ」みたいな感じで押し付けられ、しかもあれこれ指図されている、そんなふうにして生徒がすっかり嫌になってしまうケースもありますよね。
滝沢
児童会、生徒会など特別活動の領域が形骸化しているとか活気が薄くなってきたという話は僕も耳にします。こんなことやる必要がないんじゃないかという先生方がいる一方で、文科省は学習指導要領を通して特別活動の重要性を強調しています。
西
少し前に、ある県の高校の公民の先生方と話をする機会があったのですが、「うちの高校ひどいんですよ」、とある先生が言っていました。「先生が役員の生徒に働きかけて自治会活動を完全に操ってしまっている」と。有名大学に何人合格させたという入試実績の世界が強力にある中で、部活や特別活動などで自治的な活動を体験させていこうとする発想はないがしろにされがちな傾向がある……というようなこともおっしゃっていました。
滝沢
18歳から選挙権が得られるということで、いま高校の先生方はシチズンシップ教育をどうしていこうか、ということが話題になっています。そうしたなか、自民党の議員だと思いますが、中立性を保持しないとペナルティを課す、というような言い方をしている。
西
中立性? 先生に政治的な中立性を保てというわけですか。
滝沢
そうです。でも、中立性を保たないとだめだと言われたりしたら、何にも言えなくなるじゃないかという心配はありますね。そもそも、日本の高校教育は、全共闘以降政治的な内容を扱うことに対してすごく慎重になっていて、そこが空洞化しているという言い方をする人たちも数多くいます。そうした中で、来年から18歳での選挙権が導入されるから、そのための指導をしろと言われている。そうした微妙な状況にあるわけなんですよね。
西
団塊の世代の人たちの学生運動が、基本的には善意から出発しなからも様々な党派対立を生み出してしまい、失敗していく姿を目の当たりにする中で、続く若者たちも自信を喪失していった。そういう事実はありますよね。また、当時の政府は、「新宿西口で集会が盛んに開かれるからそこを潰してしまおう」というようなことを明らかに意図的に行った。人が集まりワイワイできるような空間自体を封じ、そういうことができないようにしてきたわけです。
でもある時期から文科省は、自治の力が大事であって、互いに話し合うことを通して自分たちの場所を作っていける力を育ててほしい、と言いはじめた。
滝沢
あまりにもそうした力がなくなってしまったので、国としても危機的な状況を感じるようになった、ということでしょうね。
西
きっと、そういうことなんでしょうね。
今、僕はフランスの小さな街――ノルマンディにあるリヨンス・ラ・フォレという旧い街でフランスの「美しい村」の1つなんですが――を訪ね、そこでの自治についていろいろ調べています。そのさいに、フランスの公立中学校の制度を調べてみましたら、学校のいちばん大切な方針を決めていくのは、校長と教員だけでないんですね。親たちと生徒たちの代表とコミューン(市町村)の議員もいっしょになってつくる「管理評議会」というのがあって、それが学校の根本方針をつくる。
そもそもフランスでは、20世紀に入ってからずっと、アソシアシオン(アソシエーション)という呼び名でもって、さまざまな自治的な活動を重視してきています。趣味のサークルから街づくりまで、自分たちでいろんな種類の活動をつくりだし、それを風通しよく営む経験を積んできているし、そのことが教育においても重視されている。
民主主義の根幹である自治を、生徒たちが学校という場所で実験的に行うことが重視されていて、自分たちでアソシアシオンをどう作るかとかその運営の仕方をも具体的に学ぶことになっています。しかし実際の学校運営そのものが自治的であるのには驚きました。さっき言いましたように、学校じたいの運営を決めるさいに親の代表と生徒の代表が入ってくる。それが公立の学校の話ですから。
フランスにはもともとフランス革命以来の民主主義の伝統があるわけですが、とくにアソシアシオンの重視は20世紀に入ってからですね。さらに、戦後はフランスでは多様な人種が暮らすようになってきましたから、互いの文化や価値観の違いを踏まえ、意見を出し合い自治を行っていける人間をめざすことが教育において大きな柱とされてきたのだろうと思います。
僕が勉強のために見たのは「クレアレポート」という信頼できる調査でネットで手に入るものなんですが(Clair Report No. 344「フランスにおける地域振興とアソシアシオン」(財)自治体国際化協会、2010年)、それを見ただけでも、フランスの自治のための教育は相当なものだということが伝わってきます。
しかし、日本で自治というと……どうなんでしょうね。部活などはいい形で行えている場合もあるのでしょうね。高校の部活で意見の対立があったが、本気で話し合ってそれを乗り越えていった、という経験を大学生から聞くこともあります。しかし日本の高校を全般的にみるとどうなのでしょうか。生徒会も含め、いろんな人と関わりを持ちながら、自分たちの場所を心地よく作っていくことを大切な力だと考え、そこを大事にしていこうとする発想は、学校にも親にも薄いように感じます。むしろ今は、文科省のほうが本気でやらせたいと考えているような感じがします。
佐々木
以前西先生が、日本の学校の場合、例えばPTAで話し合いをしても、意見の対立は上が調整してくれるものだし、上が決めたことに従おうというようになりがちだという話をされていたように記憶しています。
それをうかがったとき、確かにそうだなと思いました。意見が違ったとき、横並びで話し合い考え合い、解決しようとする発想というのが弱く、どこかで偉い人が決めてくれるものだと思ってしまう。
特に私たちの世代の場合、政治に関わろうとする人は特定の集団、野心の強い人だけという感じで、むしろ政治と離れた場所に身を置きたい、自分たちは自分たちの世界でがんばりたい、という世界観を多く人がもっているように思います。
西
いまのお話は、すごく的確に今の状況をとらえていると思いました。自分たちで自分たちの場所をつくることは、その分労力がかかり、担わなければならないことも増えるからめんどうくさい。あまり無茶苦茶でないのだったら、政治には関わりをもたないで、自分の場所で自由に生きていきたい。そんな感度が強いかもしれないですよね。僕らの社会では。
佐々木
多分日本がそれだけ条件がよかったのかもしれないですよね。自分たちがそんなにがんばらなくても、政治に関わろうとしなくても、そこそこ幸せに生きてこられてという現実があった。
西
それなりに回ってきたということがあるんでしょうね。
犬端
僕の場合、実のところ「自治」という言葉そのものに違和感がありました。先ほど前田先生がご自身の高校時代の話をしてくださいましたが、「自治」というのは何か「バリケードの中で盛んに使われていた言葉」という印象を勝手にもっていた節があったんですよね。自分に入り込んだ特定の思想、共産主義的な物語などに憑かれた人たちが声高に語る言葉として、いわばその本質とは正反対の形でとらえてしまっていた感じです。
学生運動全般に対して、僕はいいイメージがないんですよ。集団的な高揚感のもと、正義の言葉をガーガー鳴り響かせているような感じがして。でも運動がすっかり下火になってから学生時代を過ごした世代なので、事実を知らずに語ってしまっている後ろめたさはありますが。
西
その感じも分かりますが、……僕も団塊の世代の10年下の世代なので後知恵なんですが、もともと全共闘運動というのは、東大の医学部で無根拠なのに退学させられた人がいて、「それはひどいよ、おかしいじゃないか」というところから始まっているんですよね。
そもそも全共闘が何かというと、党派ではない、ということです。党派に関わりなく、おかしいことはおかしいと言おうという心根があった。党派的な活動だったらやりたくない。そうではなく、おかしいことはおかしいと言おうよ、というのがそもそもの始まりのようです。明らかに悪くない人をちゃんと調べもせずに処分してしまう。学生たちはおかしいじゃないか、と言うのに、教授連は自分たちのミスを認めない。「何それ!?」というものだったみたいです。だから学生たちの間であれだけの広がりをみせた。
だから、むしろ反党派的な動きなんですよね、全共闘というのは。「全学連」とは違う。全学連には民青系のものがあったり革マル系のものがあったりなどして、それこそ党派そのものなのですが。
犬端
それすらまるで知らず、通り過ぎていました。話してみてよかったです。
佐々木
わたしも全共闘運動の発生は知らなかったですね。
西
あのころガーガー言っていた人たちの背景も、一様ではなかったということですね。
でも、さっき党派的といった全学連に入った人にしても、初発の動機は、「おかしいことはおかしいといいたい」「なんとかしたい」というところにあったんだと思います。それがしだいに左傾化していき、共産主義までいかないと不徹底だという人も出てくるようになった。だから連合赤軍事件が起こったとき、党派に入らなかった人たちも「自分だってそうなっていた可能はあったかもしれない」ということですごいショックを受けたように聞いています。
犬端
それでもあの時代の中、おかしいことはおかしいと言おう、という動機が息づいていたわけですね。そこから自治という言葉がほんとうの意味のもとに展開していく可能性もあった。前田先生が考えていたのは、そういう「おかしいことはおかしい」という感度に基づいた自治だったのですね。
前田
そうですね。おかしいことはおかしいと言える環境は大事だね。そこは共有しようよ、という感じです。
犬端
そこを出発点にできることって大事だと思います。おかしいことはおかしい、だからみんなで解決していこうよ、という動機から始められるということは。
西
そうですね。全共闘をはじめ、学生たちのなかにはそうした健全なものが内側にあった。でも、マルクス主義に傾斜し、「反権力」「反国家」等々という、党派的に凝り固まってしまう動きも同時にあった。ですから、ある意味で、反権力・反国家の思想を一遍始末しなければいけなかった、ということは言えるような気がします。そのままではどこにも行けないですし。
反権力・反国家という理念に凝り固まらずに、自分たちに必要なことを出し合い、地域の活動やNPOに取り組んでみたり、行政に対しても、ときに文句を言うことはあるかもしれないが、必要なときには協力していく、ということが自然に行われるようになったのは……だいぶ後の話ですよね。80年代の初頭には、運動している人たちの多くはまだ反権力反国家主義だったような印象があります。
犬端
反権力反国家にどうしても拘泥してしまうほど、ひどい時代を経験した記憶も鮮烈に残されていたわけなんでしょうね。戦時中に子ども時代を過ごした親の話を聞いてみると、勤労動員に駆り出されて本土決戦のための要塞をつくらされたりだとか、理不尽な暴力を教師から日常的に受けたりなど、ほぼ狂気と言える時代を経験している。そうした記憶の反動として、戦後社会の中で国家権力への不信が湧き上がってきたことは理解できます。
でも、ただ権力を批判するだけの言説から、今後の方向性を見出していくことはできないですよね。共有可能な価値、持続可能な社会を、より開かれた場所で、より冷静な言葉の交わし合いを通して構想していくためには、いったん党派的な思想、党派的な活動が前面に出てきて、それでは駄目だということがみんなに身に染みてわかる経験というのが必要だったのかもしれないですね。
西
「自治」というテーマをもう少し掘り下げてみたいと思います。
「自分たちで場面をつくる」ことには面倒くささがありますよね。また、それを意識しなくても、それなりには生きていけるという状況もあったかもしれない。でも、いま日本では少子高齢化が進み、地方の都市にも軒並みシャッター街ができてしまっている。そうした状況の中で、「なんとかしなければいけない」ということが出てきていますよね。
ですから、自治しうる人間を育てることがいまほんとうに重要な課題になっているのだと思います。では、そのためにまず何が必要か、というと、自分の意見を聴いてくれる環境ができていく、ということだと思います。「この場では、何か言ったらみんな聴いてくれる」という、場に対する信頼――心理学者のエリクソンの言葉をもじっていえば「場に対する基本的信頼」とでもいいたいところです――ができれば、「こういうので困ってる」ということが言えるし、また他の人が「こういうのが嫌だ」と言うのも聴けるようにもなる。そういう、それぞれの想いと言葉を受け止め合える場面ができていくかどうかは、決定的だと思います。
そういう場面があってはじめて、「これは自分たち自身の問題だ」という思い、つまりは「われわれ」の意識――当事者意識といっても同じですが――と「共通の関心事」が出てくるようになる。声を挙げても聴いてくれないようなところでは、「われわれ」の意識は生まれようがないですから。
場に対する基本的信頼ができてはじめて、「われわれ意識」と「共通の関心事」が生まれると、それについて「じゃあどうする?」「こうやってみようか?」というアイディアもいろいろ出てくるようになりますよね。僕はこうした試行のことを「共同的探索行動」と呼んでいるのですが、いろんなアイディアが出されてくる。そして「どうするのが皆にとっていいか」という観点からいろいろ議論がなされたうえで、集団としての意志決定がなされる。この意志決定は、「みんなでこうすることにしよう」というルールの形になることもあるし、「ぼくはこれをするから、君はこれをやって」というような、互いどうしのあいだでの役割関係のかたちになることもありますね。
流れを図式にしてみると、語り合い・聴き合う→場に対する基本的信頼、当事者意識と「共通の関心事」が生まれる→共同的探索行動→ルールや役割関係ができる、というふうになってくると思います。
何でこんなことを言うのかというと、まちの景観をみんなで守ったりなど、自治的な動きが生まれるときには、必ずこういうことが起きているんですよ。誰かが、「これおかしいよ。なんとかしないといけないと思わない?」ということを言い出す。最初の内は少数かもしれません。でも、だんだんそれに呼応する声が出てきて、みんなで言葉を交わせるようになっていくと、「なんとかしよう、なんとかできるかもしれない」という動きが展開していくようになる。
そして問題を実際に解決していくためには、役所に対しても、ただ批難し攻撃するのではダメで、互いの信頼関係を築いていく必要があるわけですよね。仮に住民が先に動いたとしても、問題解決をめざしていくためには、役所との協力が欠かせないわけですから。また、組織の運営の面でも、党派性をつくらずお互いの想いを受け止め合える柔軟性を保っていくことが、カナメとなってくる。
教育ということでいえば、そのような経験を、小さい規模でもいいから得ていくことが大切だと思います。たとえ対立する場面があっても、話し合ってみたら相手の側の事情がよく分かっただとか、言葉を重ねていくうちに自分たちの考えが理解してもらえるようになっただとか、そうした体験を得られるのは非常に意義あることだと思います。
その経験を通して育まれる当事者意識というのは、ルソーのいう一般意志――自分も含むみんなの利益を考えあい前進させようとする意志――と結局同じことになります。ルソーは社会契約によって一般意志が成り立つ、というかたちで『社会契約論』を描いたわけですが、地域や集団においては、互いの声を受けとめ合うことから当事者意識が生まれる、ということが、あらためて社会契約を結ぶような働きをするといえるかもしれません。
「どうせ上が決めること、自分たちの言うことなんて聞いてもらえるわけがない、別にそれで生きられなくなるわけでもないから俺は俺でやっていくわ……」という状況の中では、そもそも「どうすることがみんなにとって一番いいことなのか」ということを考えようとする問題意識が生まれてくるはずがない。だからやはりスタートは「互いの声を受けとめ合うこと」から、ということになりますね。
滝沢
わざわざそんなことを考えなくても自分自身の中で完結していればいい、だとかいうようになってしまいがちだけれども、もっと別の開かれ方があるわけですよね。「あの人も自分自身も」というように感じられるような……
犬端
実際に顔を見合わせて、お互いのやりとりのなかで何かが動いていく実感が得られると、それが基盤になるように思いますよね。
ただ、なんというか……社会生活という現実的な文脈から離れ、市民というフラットな立場から、みんなにとってこのコミュニティーをどうしていくのがよいのか、という問題意識を持たせることも大切だとは思いますが……同時に、みんなそれぞれ仕事について生活しているという現実があるわけですよね。そこで大切なことって、健全な分業を成り立たせていくことじゃないかと思います。それぞれ、自分自身の仕事の中で、自分たちにとってはこういうことが大切だよ、というものを持ち、それを互いに生かし合っていこうとするような。
もちろん利己的で営利主義的な企業は現実に山ほどあるわけですが、それと同様、できるだけよいものをつくり満足したい、人にも喜んでもらいたい、という動機を足場にした営みにしても、現実社会の中に山ほど見いだしていくことができるわけですから。地域社会というか、小さなコミュニティーであるほど、そうした営みを具体的な人の姿を通して実感していくことが可能になるように思います。
それぞれ自己価値を表現しながら生きられるような場所を見いだしていくなかで、状況の改善や利害の対立を克服する必要性が実感でき、そこから自治という発想が必然性を得ていく……そんなことが必要ではないかと思います。
西
学校の場合は、ある種人工的な空間なので、部活の中での自治だとか、学園祭でそれぞれの部の出し物があり調整し合っていく体験ですとか、そうしたものを得ていくことができるわけですが……いま、学校でも地域とのつながりを大事にするようになってきていますよね。
前田
小学校は、昔から地域の学習がありましたが、高校も最近意識して取り組み始めていますね。
西
学校の中でいろいろな自治的な動きを大切にすることは大切だし、また、高校の段階でも、地域の中での分業、具体的にこんな仕事をしている人たちがいてこの地域社会は回っているんだな、ということを知り、その中に学校も位置していることが見えてくるという体験も、確かに必要ですよね。
そんなことが全然なくて、模擬選挙、模擬裁判をいきなりやれと言われても……全く意味がないとは言わないけれども、それだけだとね……。
佐々木
実感が伴わない感じがしますよね。
犬端
「これはおかしい」ということを言挙げしていくことから当事者意識が始まる、という話について、ほんとうにその通りだと思います。そのためにも、まず自分自身が、「ここで、こういうことをしたい」ということを持てるようにするのが大切だし……同時に、地域社会のさまざまな場面で工夫を重ねている人の姿にシンパシーを感じられるようにすることが、大切じゃないかと思います。
「そういう状況になったら確かに困るよな、もっとこうならないとつらいよな」ということを実感したり、あるいは、「これをこうすると、こっちにとってはいいかもしれないけど、ここには負担がかかってしまって大変だな」ということを実感できたりするのって、大事だと思いますし、そこからお互いにひとつの場面をつくっていくことの意義や、ときには楽しさのようなものが分かってくるんじゃないかと思う。
西
そういうことが教育にとって大切だと、自覚されていくことが重要ですよね。
もともと、学校生活には」「脱ローカル」的な面があるじゃないですか。小学校の場合は、そもそも地域が力とお金を合わせて校舎を作ったりしたケースもありますし、運動会には村長さんが来るなど村の祭り的な部分があったりして、地域とのつながりはかなり強い。しかし中学校、大学と行くにつれて、地域との結びつきから離れ、抽象的な技能、知識を与えられ、脱文脈的というか、どこででも通用する――ここの工場でもあちらのオフィスでも務めることができるようになるための一般的な知識と技能を得ていく。そのことは別に悪いわけではないし、職業選択を可能にするための基礎にもなるわけです。
だから、脱文脈的な知識技能というのも重要なのですが、でも、それを抽象的に学ぶだけでなく、自分がどのような場面のなかで生きてきたのかをとらえ直してみることとか、また、これからどのような場面を人とともにつくりながら生きていくのかということを想像しててみる、というようなことが大切なのかもしれません。
前田
これはずっと考えてきたことなんですが……教育の根本には生徒観があると思うんですよね。で、僕自身の生徒観は「子どもは賢明だ」「子どもは善い存在だ」という前提から始まっていないんです。そういう前提に立って民主主義的教育観を展開している人もいましたが、僕の場合は、「別に子供は賢明ではないし、善くもないけれど、それでも自治なんだ」という感じです。性善説的な世界観に立ち、子どもはそもそも善い存在だから自治が可能だ、ということではなくて、善くても悪くても、賢明であってもそうでなくても、大切なのは自治なんだよ、という思いが、生徒観としては根底にありましたね。
政治的に革新的な立場をとっていた人の中には、子どもは教え導かなければいけないものだ、という考えをもっている人もいました。でも僕はそれとも違って、賢明であっても賢明じゃなくても、善くても善くなくても自治は自治なんだ、という立場です。
西
子どもは賢明じゃないから教え導かなければいけない、という立場ではない。
前田
そうですね。それがそのうちにシチズンシップという言葉に結びついていくんですね。市民というのは、善ではないんですね。賢明でもないんです。でも、市民の自治なんですよ、という感じです。
犬端
いい子か悪い子かということはさておき、ある場面のなかで実際に関わりができれば、その中でなんとかしていかなければいけない、という切実な状況ができる。そういう経験そのものが大切ではないか。お互いの資質そのままそうした場面に立ち会い、そこで何か続けていこうとするのであれば、自ずと「互いにとって」という場所から考え合わなくてはならない。そんな経験を得ていくのが大事なんじゃないだろうか……という感じでしょうか。
西
民衆は愚昧であるとするならば、賢人の育成のようなものが要請されますよね。確かに、自分が損するのはいやだし、場合によっては汚いこともするし、というのが人間だと思います。決して美しいばかりの存在ではない。さきほど当事者意識の話をしましたが、一般意志にしても、自ずと人は一般意志をもつ……というようには決してできていないわけですよね。
でも、言葉を出し合い、お互いの思いを率直に受け取り合う経験ができると、「俺はこうしたほうがいいと思ったけれども、それは滝沢君にはえらい迷惑なんだな」だとか、「このルールは自分個人はあまり損しないけれども、あの人たちはこのままだとえらく損をすることになるぞ」だとか……お互いの事情がみえるようになると、「ここはなんとか一緒になってやっていかないと」という当事者意識が生まれ、一般意志を考えようとするようになる。こうした側面も、人間のなかには同時にあると思うのです。
犬端
そういう経験をもてるかもてないかで、同じ人間でもまったく違ってきちゃいますよね。
西
ですよね。それで学校のいいところは、「先生が見ている」ことだと思います。
前田
見ている必要はありますよね。
西
子どもたちが、お互いの意見や感度を出しあえているのかを見守り、自治の体験が生まれてくるように、意識して見てくれる大人がいると、全然違ってきますよね。
また、そういう経験をもてると、ちょっと賢くなったりもするわけですよね。決して最初から賢いというわけではなく、自治の経験があって賢くなっていく。賢くなってから自治をやるわけではない。その違いというのは大きいですよね。
犬端
いまの話、すごく共感しながら聞いていました。自治という経験を持つことで、はじめて変わりうる、ということがあるわけですよね。
初めに「善い人でありなさい」という言われ方をすると、それはもう自分自身の問題ではなくなってしまう。「僕はこれをやりたい」「僕にとってこれが必要だ」ということを出発点にできること、加藤典洋さん風にいうと「私利私欲」から始めていけることがやはり大切ですよね。そこから始められてこそ、関係的に自己を編み替えながら場面をつくっていこうとする動機も、自然に生まれてくるように思います。
前田
そうですね。まさしく西さんの言われた通りで、営みの中で善くなっていく、賢くなっていく、という感じですよね。ひとことでいえば。
西
あらかじめ善ではないし、賢くもない。…それはまさにその通りですよね。
滝沢
教師が、必ずしもいい子ではない子も含めて、自治的な活動に巻き込んでいこうとするプロセスの中には、先生自身にも葛藤だとかちょっと疑ってみたりですとか、忍耐をもたなければいけない場面はありますよね。いいかげんにしろ、という緊張もあるでしょうね。
前田
ありますね。何度もありましたね。
いま、模擬選挙や模擬裁判などの活動が、なんでとってつけたもののように思われがちになるのかというと、そういう日頃の取り組みやプロセスがないまま、ひょっと降ってきたような感じになっているので、「なんだそれ、イベントか」という受け止め方をされてしまっているんだと思います。
逆にそういう営みが日常的にあれば、その延長線上でとらえられることができると思うんですよね。
滝沢
文科省から、主権者教育にかかわる副教材が出たということで、その内容を見てみました。すると、なるほどアクティブラーニングは取り入れられているのですが、前田先生のおっしゃったことを踏まえていかないと、形式的なものになってしまうのではないか、という危惧を抱いてしまいます。これがその骨子をまとめたものです。(「内外教育」〈第6449号〉2015.10.6 【時事通信社】)
西
……「国家社会の形成者として求められる力」「論理的思考力」「根拠をもって意見を主張し、説得する力」「多面的かつ公正に判断する力」。確かにみんな立派なことではありますが……
滝沢
主権者として求められる力をうまく拾い上げてはいますが……
西
確かにそうなんですが、先ほど言っていたように、人ってそんなに立派じゃないということを前提にしないとだめだと思います。そのうえで、どんな条件があればこういうところまで行けるのかということをきちんと考えていかないと。
みんながこんなふうにはなれませんよ。アクティブラーニング型のこうした学習によって、他者との議論を通して、というように、一応そのための方法は書いてありますね。しかし理想が先にあって、そこにいくためにこういうアクディブラーニングを行っていくのだ、という感じがします。
滝沢
メソッドが示されている。
西
話し合い討論の手法、そして模擬選挙、模擬議会と。……確かにこれだけみれば、非の打ちどころがないですよね。
でも、人がどうやったら本気で、自分も含めたみんなの問題として、自治を考えることができるようになるのか、ということについては一切触れられていないですよね。
それは実はものすごく身近な部活だったり、学校のクラスだったり、地域に出てインターンシップに取り組むことだったり……そうした中で、「やっぱりこれは本気でやらなければ」という場面が生まれてくるし、それを自分の問題として感じられる場面が出てくる。そういう身近なところから出発でない限り、実のあるものにはなりませんよね。
まず理想的な国家社会の形成者を立て、そこに導くためにこれこれのアクティブラーニングに取り組ませましょう、というように、結果から逆算している感じですね。もちろん真剣に考えられたものだろうし、悪しき国家観を感じさせることはないんですが、どこかアタマでつくりあげたもののような気がして、違和感をもつんですよね。
滝沢
本質観取が徹底されていないという感じでしょうか。
西
そうですね……。人間観といってもいいんですが、それがすっぽり欠落していると思います。まさしく前田先生がおっしゃったように、人って最初からそんなに立派なものではなく、むしろ自治の経験を積むことによって知恵をつけていくものであり、条件が整わなければ、ものすごく排他的になったり、いじめをしてしまったりする存在でもあることをまず前提にしないといけないと思います。
では、その条件をどのように育てるのか。学校をそうした自治を経験できる場所としていくためには、何が必要なのか。日常的な子どもたちの活動の中でそれが育まれていくためにはどうすればよいのか。……僕だったらそういう方向で考えると思います。
でも、このテキストの場合、最初から立派な人間像を立てたうえで、という感じですよね。
佐々木
こんな高校生はいないだろう、という感じがしますね。
西
そうですよね。そうしたものを立てたうえで、そこに行くにはこれだろう、という設計図になっている。そこに違和感をもってしまうんですよね。
前田
まさに逆算的な発想ですね。
西
こうした主権者教育を本当に根付かせていくためには、もっと生徒の身近な活動を取り上げ、こうしたことを意識してみると自然に育まれていくのではないか……という発想をもつことが大事だと思うんです。
滝沢
主権者教育を形骸化しないためにも、そうしたことをもっと積極的に言っていかないといけないですよね。あるいは先生方が実践交流しながら、こんなことでは定着しないということをはっきりさせていくことですとか……
西
そうですね。政治に関わっていこうとする若者はだんだん増えてきているし、徐々に変わっていくのかもしれませんが、一方で、「めんどうくさいや」だとか、「それはもう上の人に任せておいて、自分は自分の世界で生きていけばいいよ」という感度も根強くあるわけですよね。だったら猶更のこと、どういうときに人は一歩踏み出して、本気になって一緒にものごとを考え、解決していこうとするようになるのか、というところまで考えないと。そういう「動機」に関わる問題がここにはまったく入っていませんから。
教育って怖い一面がある。人間に何かのプロセスを踏まえさせて「成型」していくという発想がありますよね。
滝沢
ある意味、ずっとそうですよね。中教審答申が出る度に、高邁なる理念と方法論を提示してくれはするんだけれども、いつもきっちり総括をしないまま、また新しいバージョンに刷新されていく。戦後教育って、そんなことがずっと繰り返され続けているような気もします。
佐々木
テキストに書かれているようなことをするより、生徒会活動に放り込んでしまったほうが身になるような経験をもてる気がします。
滝沢
確かにそうですね。前田先生の実践のように。
西
放り込まれてウンウンいう経験をもつほうがよほど大事かもしれない。
佐々木
主権者の実践をすることになりますので、身になる経験になると思います。
西
そうですね。結果としてそうした力が育ってくるわけで……
滝沢
西さんがさきほど一般意志のことをおっしゃっていたけれども、前田先生がエッセイに書かれた、クラスメートに対して「放っておけない」という気持ちを生徒たちが持ったという話がとてもよくて。「いい子になろう」というのではなく、めんどくさくもあるんだけど、放っておけないから動いてしまうというその感覚が、すごくいいと思うんです。
「放っておけない」という気持ちが湧いてきて、「自分のことでもあるし相手のことでもあるんだ」とほんとうに思えるその感じが……一般意志という言葉を使うと大げさになるかもしれないけれども、でもそれにつながっていくような気がする。
西
すごくいいクラスにしよう、理想のクラスにしよう、と謳い上げるんじゃなくて、あいつのことが放っておけないという気持ちが生まれ、そこから一体感が生まれていくという感じですよね。
前田
「めんどくせえな」とつい言ってしまうのは、多分照れ隠しかもしれないですけどね。
西
心の中ではこのクラスをもっと雰囲気のよいものにしたいと思っていたかもしれない。
前田
そう、だけれども、「そういうことじゃなくて」っていう言い方がしたいんでしょうね。あの子たち特有のセンスでね。
ここにも書いたように、球技大会で、競技したり応援したりと次々やっていく中で、その感じが固まってきて、ああ成長してくれているな、というのがよく分かりましたね。
滝沢
そうしたことが教育の本質の一つとしてある。それを共通了解していけるかということが大切だと改めて感じました。
西
僕は、相当程度その合意はとれるように思っているんですよ。いろんな地域、いろんな場面で、自分たちで声をあげ、動かしていかないとどうしようもない、ということが切実に感じられているわけでしょう。自治の力、ともに場面を作り出し問題を解決していける力を得ていくことは、これから社会を生きていくうえで欠かせないわけですから。
でも一方で、この資料のような方針が上から降ってきてしまう。大変ですよね。
西
教育の本質を考えていくための出発点として、前田先生が、若い頃から「自治の力を育てなければ」と直観していた話から展開してきたわけですが、やっぱり本当にそうだと思いますね。
親だって、「生徒会活動をするよりは、勉強して大学通ってくれよ」という人もいるだろうけれども、でも、「人と対話をして場面を作っていく力はなくていいんだ。そんなものはいらないんだ」と思っているかといったら……また話は別ですよね。
その意味では、多くの人が、それがいまの教育にとって大きな柱になることだということに賛同してくれるように思います。
滝沢
以前、前田先生は「親を見くびってはいけない」とおっしゃっていましたよね。「親は親でちゃんと考えているんだよ」と。
前田
その言葉は、実はある私立高校の副校長だった方がおっしゃっていたもので、「親は見くびれないですよね」って僕に言ったんです。
「どういうことですか」って聞いたら、「進学一辺倒でやっていればなんでも賛成、という、そんな単純な親ばかりではないですよ」と言うんです。まさしくそれは僕自身も感じていたことだと思いました。
犬端
今回の前田先生の話を通して、「自治」という言葉の語感が自分の中で刷新されたような気がしています。自分自身の生の場所、自分自身の実存を外してしまえば何も残らない、という感覚と、自治の考えとは、実は裏腹なものとしてある……
西
互いにリンクしているという感じですね。
犬端
いいも悪いも、自分は自分なんだ。その場所から始めることができなければしかたがない。
そこから始めて、一人一人がどう関わり、どんな場面を持っていくのか。そして「互いにとって」という感覚を、どのように内実をもってつかみとらせていくか。前田先生はずっとそこを目指してこられたんだ、ということを考えさせられています。
滝沢
一方で文科省のこの資料からは、その実存原理というものが感じられてこない、ということですよね。
西
それは本当にそうですね。
佐々木
わたし自身は、今まで実存哲学と社会哲学とは別物、その二つの潮流があり、互いどうしの闘いだ……という哲学のとらえかたをしていましたが、自治ってそこの接点なんだな、ということがいまパッと思いつきました。実存と社会の接点となるのが自治という発想ではないでしょうか。自治というものは自分らしさを生かすものとしてあるのではないかと。「社会」には「抑圧してくるもの」というイメージがありますが、そうではなく、社会と自分らしさを融合していくものが自治ではないかと。人が、それこそヘーゲルが精神現象学で描いたような成長のし方をしていく一つの観点なんじゃないか。そういうふうに思えてきた感じがします。
前田
生徒同士の相互性もそうなんですけれども、「エリートと非エリートたち」という枠組みではないよね、という発想でもあるわけですよね。自治の原理は。だから、いまみんなは分かっていないだろうけれども、俺は分かっている、という構図にはならない。
まあこんなことは、いま整理して言っていることであって、先ほど西先生がおっしゃったように、当時の僕は直観的でした。決して原理としてとらえられていたわけではありません。
西
でも、前田先生のその直観には大事なものが含まれていた。
犬端
さきほど前田先生おっしゃっていましたが、ご自身の高校時代、バリケードを築いて体制に抗おうとしている先輩たちに対して、ある面では共感をもちながら、ある面では違和感を抱いていた。そうした直観が原点にある、という感じはありますか?
前田
異議申し立てをしていた先輩たちに対して、異議申し立てをしたわけですよね。わかるけれども、それは違うんじゃない。そういう僕を認めてくれるんだろうね、という感じですね。
犬端
どんな立場にしても、「もともとこれが絶対に正しいんだ」という形で強固に押し付けられてくると、「それはほんとうにそうなの?」という気持ちがどうしても立ち働いてしまう。そんな感じでしょうか。
前田
そうですね。あのとき、指導的な役割をしている「正しい」リーダーたちと、「間違っている」先生たちや学校と、まだ意識が低い一般生徒たちと、という構図があった。僕は直観的にそれが嫌だなと思ったんです。
西
そういう見方がね。
前田
そうかもしれないけれども、僕は何か嫌だ、と思った。それで、僕は確かにあまりものを知らないかもしれませんが、あなたの考えは嫌です、ということを当時のリーダーたちにぶつけていった感じです。
西
前衛党主義があり、それに反対する人たちもまたミニ前衛党主義になっている、そんな構図がありましたよね。
前田
前衛反対といいながら、あなたの考えは前衛主義的ではないですか、という感じがしてしまったんですよね。
犬端
同じ「自治」という言葉を用いながら、その背景に党派的な理念を抱え込んでしまっている「思想」が飛び交う中で、「自治」の本質は、そもそもそうしたところにあるのではないことを直観されたわけですね。具体的な場面を通して、互いの平たいところから思いを出し合い、もっとこうしよう、いや、こうしたほうがいいんじゃないか、ということを考え合っていくこと。そうしたことそのものなかに「自治」の本質があるんじゃないか。……そうした形で「自治」の概念が共有されていくようになれば、これは意義のあることですよね。
西
そうですよね。教育の本質を考えるためにも、大切なことだと思います。
(了)