第6回 『エミール』から考える
犬端
今回は西さんがNHKの「100分De名著シリーズ」で展開されたルソーの『エミール』論について話してみよう、ルソーの思想や教育へのアイディアで、今に生かせるものがあるとしたら何なのかを考えてみよう……というテーマです。
まず僕自身の感想ですが、今回のエミール論で印象に残ったのは、「自己愛」というキーワードです。自分の幸福と社会との関係をつなげていくことってやっぱり大事だな、ということを再認識させてもらった感じがしています。前田先生も、エッセイでそのことを取り上げられていましたよね。
そこのところがうまくいっているときって、それこそ幸せなんだと思います。自分の幸福をベースにしたうえで関係を築けていたり、意味のあること、これから先にもつなげていけそうなことができていたりする実感をもてることが、トータルな意味での幸福ではないかと。そして、そうした感度を育むことにつながるのだとすれば、教育ってとても意義の大きなものになるな、と思いました。
滝沢
そうですね。そこのところを、しっかり括り出してくれていると思います。
ルソーの『エミール』に関しては、これまでも、たくさんの教育学者たちが論じていますが、そこには多くの誤解もあるのかな、と感じました。「消極教育」だとか「自然に帰れ」ですとか、そういうルソーの思想のキーワードにしても、これまで極端な、バランスを欠いた形で紹介されてきたことが多いように思います。今回の西さんのエミール論は、そうした概念に対する整理を、これまでにないような形ですっきり示されているように思いました。
あと、発達段階という言葉がありますけど、ルソーって心理学者ではないけれども、心理学者同様に、そしてそれ以上にちゃんと人間の本質を踏まえながら、段階論を展開しているという感じがしました。それも発見でしたね。
それと、ルソー自身は直接触れているわけではないかもしれませんが、教育の世界でも最近よく口にされるようになった「自己決定」「自己責任」ということについて、考えるきっかけをいただいたように思います。
「自己決定」「自己責任」という言葉のもと、「お前のせいだろう」「お前に思慮や能力が足りないからだ」というように、社会の競争原理を正当化し、助長していくような動きがすごく強くなってきている気がしています。そんななかで大切なことは、自分の中に生きる核をしっかりもち、自分を愛し、他者も愛しという感度をもちながら、適切なる自己決定をしていくことじゃないか。今回の西さんのルソー論は、そのことをとても健全な形で伝えていると思いました。
そこにも関連しますが……これはルソー自身の発想にちょっと足りないところじゃないか、という形で西さんが示されていたことにも興味を持ちました。それは、「助けて」っていう言い方ができるのも自律である、という考え方です。自分ですべてを背負い込むのではなく、人との関係の中でものごとを解決する力。それも含めて自律ではないかということですよね。
いま、なかなかそうしたことが、教育のなかで明確な形で取り上げることがないように思います。自分自身にしてもそうした関係性、社会性に対する感度がどこまで培われているかというと、まだまだ不十分だな、という気がしています。
犬端
関係のなかで自分を活かし、お互いを活かしていくという感度、頼り頼られしながら工夫し合っていける、という姿勢をもてることはたしかに重要だし、ルソーの『エミール』に足りないところ、という感じで西さんがそれをはっきり示されたことは、とても意味がありますよね。
佐々木
わたしの場合、これまでルソーに関しては、思想というよりも文学として接していた感じなのですが、今回の西さんのルソー論を通して、カント哲学への影響力の大きさについて気づかされました。カントって、「上なる星空と内なる道徳律」という言い方にしてもそうですが、「普遍的なことは内側で確かめれば必ずわかる」という発想が基本にあると思います。人間の内にある良心に従えば、必ずいいことがわかるよ、みたいな構えをもっていて、不思議な楽観性があるんですよね。それはどこから来ているのかな、と思っていたんですけれども、『エミール』のサヴォア受任司祭の話や、ルソーの「自然」に対するものの見方とつながっているように思いました。
でも、カントの場合は、ロジカルに突き詰めていけば人間の良心というのはわかるよ、という発想が前面に立っているので、「その確信の根源は何なのか」ということをつい聞きたくなってしまうところがあるように思います。むしろルソーのほうから、ある意味本質観取的な感度のもと、自分自身の内在から確かめながら、人間の良心の役割だとか、自然との調和のようなことをとらえようとしている感じを受けます。そこがすごく腑に落ちるんですよね。「こういう環境の中で育つことができれば、良心が育まれ、自由への感度が育っていくんじゃないか」という『エミール』の発想そのものにも、とても納得がいきます。
西
そうですね。カントの場合、人間の良心というのは、人間にもともと先天的備わっているアプリオリな原理として考えられています。それは、自分の格律に対して、ほんとうにだれもがそれを採用する普遍性があるのか、というふうに語りかけてくる、というのです。ルソーの場合も、良心は先天的なものだといったりもする箇所もあるのですが、『エミール』をていねいに読んでみると、人が生きている条件に寄り添いながら、他者に対する共感能力を伸ばしていこうとする発想がまずあります。他者に対する共感の力、さまざまなパースペクティヴを感じ取る力があるからこそ、「君の格律はほんとうにだれもが採用するような普遍性があるのか」という良心の声が生まれてくる。つまり理性の力が生まれてくる。そういう事情をしっかりと描いています。
カントの場合は、頭の中で、「目的の国」という、理性的存在者をメンバーとする空想の共同体を想定しています(『人倫の形而上学の基礎付け』)。そして、その中の一員として、ふさわしい行為としてどんなことをするのか、という形で、道徳法則を導き出していく。その点、むしろルソーのほうが正直に、人の生きている現実に寄り添って考えようとする構えをもっていると思います。共感の力が伸びなかったり、人に対する恨みをもったり、そういうことも現実にはあるわけですよね。そうなってしまうと良心は育たなくなる。
カントの場合、ある意味、ちょっとやりすぎてしまった感じがしますよね。道徳をアプリオリな問題として、抽象化しすぎたという感じは否めません。むしろその前提となっているのは、憐れみの情がちゃんと育っていることだろうし、さらにいえば、一緒に語り合えるような空間がない限り、共感性というものは育まれていかない。そうした場があって、はじめて、これってほんとうに一般性があるのかな、ということを考えられるような力が得られるようになるのだと思います。
でもカントが、なんで良心が直接的なものとして訴えかけてくるものだ、ということを言ったのかといえば、やはりルソーを間違いなく受けついでいると思います。
これはもう、理屈ではなくて、「来る」んだよと。でも、理屈じゃなくて「来る」のはなぜ、といえば、やはりそれまで、歴史の勉強をしたり、人間の思いとか人の生きている条件などをさまざまな角度から考えたりしてきた経験を通して、獲得されてきているもののはずなんですけどね。
犬端
ルソーにしても、カントにしても、神が死んでいない時代の世界観を踏襲している気がします。こうした良心の働きがある限り、その背景には神的なもの、善き意志を司る超越的な存在があるに違いない。そんな世界観が息づいている感じを受けます。
西
それはありますよね。素朴な信仰、信頼というものを感じます。
犬端
ただ、それでもルソーを読んでいて「いいな」と思えるのは、内在というか、自分の心の動きを見つめてみない限り、何も確信は生まれてこないよ、という感じが伝わってくるんですよね。
西
ああ、そうですね。そこがたしかに大事ですね。
佐々木
わたしもそれは感じました。
西
ルソーのデビュー作の『学問芸術論』にしてもまさにその通りで、まず自分の心に聞いてみようよ。そうすれば、「これってやっぱりおかしいよね」とか、「こうしたほうがいいよね」ということが見えてくるはすだよ、という言い方をずっとしているんですよね。
それは、ただ超越的な神様が命ずるから、というのではないわけですよね。自分で確かめてみれば、自分の中にそういうものが見いだせるはずだ。むしろそこにポイントがある。そんな言い方ですよね。そうでした、そうでした。なるほど、なるほど。
一応神とはつながっているんだけれども、神が命ずるので、それに従わないと罰せられる、という感度とは、だいぶ違うものになっていますね。
犬端
まず自分の声を聞き取り、それを他者とも交換し合う中で、「これはやはりこう考えたいな」という軸ができてくる。その感じは、いま読んでも全然古びていないし、生々しく伝わってきますよね。
佐々木
でも、自然に対して感動して、ああ、「わたしは神様と一緒だ」という実感のもとにあらわれてくるような「神」って、当時の価値観からするとある意味「やばい神様」なんですよね。
それはカトリックの神というのではなく、人々に内在化された善き意志としての存在なんですよね。いろんな人が、いろんな言い方でその善き意志を表現し、形式化しているわけなんだけれども、大切なのはその形式のほうではない。要は自分自身の心の声とつながっていることが大事なんだよ、という発想をしているように感じられる。
西
そうですね。ルソーは神を、まさしくそうしたものとして感じていますよね。
犬端
神的な世界観が消えたなかを生きている者にしても……むしろ消えているからこそかもしれませんが……そうした心の声は大切なもので、そこに聞いてみたうえで、考え、確かめ、価値をともに見出そうとする構えと力を育んでいくことが、大事じゃないかと思います。
西
そうですね。それでいうとカントの場合、あそこまで形式化してしまうと、逆によくわかんないところが出てきちゃうところがありますよね。ルソーのほうが、天然というか、正直というか、そんな感じがします。
ちなみにカントの研究者たちはしばしば、ルソーをちゃんと受け取っていないような感じがします。「世界が違う」というか。でも、ルソーがいなかったら、カントもヘーゲルもないでしょう、みたいな人なんですけれどもね。不思議ですよね。
前田
僕自身、今回『エミール』を読んでみた動機の一つとしては……「シチズンシップ」について書こうとしていたんですけれども、それを考えているうちに、どうも自分の中にすっきりしないものが出てきたんです。で、そのときちょうど今回の西さんのエミール論に触れることになり……うん、やっぱりここまで戻らなければいけない、ここまで原理的に戻らない限り、自立や参加意識だ、シチズンシップ教育だ、なんていうことを言っていても表面的なものにとどまってしまう。そんな感じがしてきたんです。
みんなの利益を実現する民主主義に、現実はなっていないな、と。そしてそれは、日本だけのことではないな、と。そんな問題意識が自分の中にはずっとあり、どうすればいいんだという思いがあったんです。つまり、政治の問題ですね。民主主義の質の向上をめざしていくことが必要だと思いますし、そのためには適切な制度改革なども必要になる。
教育現場にいた人間として、そうしたことに向き合おうとする人間を育て、そうした力を育てるには、どうしたらいいのか。自分自身はどうしていたんだろう。そういうことを振り返ってみたわけです。すると、それが『エミール』のおかげで……いやいや、それは別々の問題ではなく「一つ」でしょう、という考えをもてるようになったんです。つまり「一般意志」と「自己愛」の問題は、別々のものではないということですね。それを文章にまとめてみたのがこれです。
たしか、読み違えでなければ、君主政、貴族政、民主政と、ルソーはその三つの統治形態を掲げたうえで、民主政がいちばんいいとは言ってはいなかったと思いますが、そうでしたよね。
西
そうです。一般意志を実現すること、執行することこそが大事で、君主が一般意志に従って動くのであれば、それでいいわけなんですよね。
前田
それでも、今日民主主義という言葉でみんなが語っていることは、もう前提としてしまったほうがいいと思うんですよね。人権を基盤とし、制度的にいえば権力分立制という制度が組み込まれている民主主義がまず基本になる。そのうえでなおかつ、その質の向上をめざしましょう、自覚してみんなでめざさないとだめですよ、という段階に来ているのではないか、というのが僕自身の問題意識ですね。
先日のイギリスの国民投票をみて、ひとごとではないな、と思いました。民主主義国家では国家の方針を「みんな」で決めるわけですが、それでは「みんな」ってだれだって思ったんです。国民国家の意志だから、国民か、と。でも、ヨーロッパの人たちも世界の人たちも影響を多かれ少なかれ受ける。そのときの「みんなのために」のみんな、みんなの利益のみんなって誰だろうって。投票の結果、「決める人」の意志が51%と49パーセントだった。それならこれが多数決で決まったことだ、国家の意志だ、と。そう単純に割り切れる問題なのか、と。
結論からいうと、一般意志の実現をめざす政治をやらなければいけない。そのことをルソーが言っている。ああ、そうだよな。ここまで戻るというか、ここから考え直さないと、だめなんだよな、と。それは政治制度の問題だけではなくて、教育もそうなんだよな。そう考えたことが、今回書いてみたエッセイの背景にあるんですよね。
前田
それでこの機会に、自分の人生だとか自分の教育活動などもずっと思い出してみました。
僕が高校生のとき、高橋和己が友だちの間で話題になっていました。あれはいいよなと言っている友人がいた。でも僕はそのとき高橋和己のことをまるで知らなくて、それってだれだよ、という感じでした。好きなものは好きだし、知らないものは知らない。そんな単純な高校生だったんです。
高校2年生の時に、高校の教師になろうと思ったんです。中学のときは、中学の教師になろうと思っていた。そんなことを単純に思っていました。英語か数学の教師になろうと思っていた。でも、後から考えてみたら、自分でも笑っちゃうんですが、辞書を引かないんです、僕。当時は。
一同(笑)
前田
当時は、ですよ。大学入ってからは引くようになりましたけれども。高校生のときは「めんどうくさい」と思っていた。職員室に呼び出されて「予習してこい」って、英語の先生に言われても、予習しませんでした。そういう馬鹿な生徒だったんです。
一同
(笑)
前田
数学にしても似たようなところがあって、「数学はおもしろい」と思ったんです。「微分はおもしろいな」ですとか。でも、着想が面白いと思うだけで。計算問題ですとか、試験の問題とかになると、まためんどうくさいんです。
たまたま隣にものすごく優秀な女の子がいて、計算も何も簡単にできてしまうんですよね。それで僕が、「この問題こういうように考えればいいんじゃないの」と言うと、その子が「ああそうなんだ」と言って解く。そういうこともありました。アイディアを考えるのはおもしろい。でも、計算はおもしろくない、と。
……いや、言いたいことは何かというと、なんで数学や英語にこだわっていたのか、ということを考え直してみたんです。それはつまり、受験競争の代表だからですよ。英語と数学が、学校の成績の代表ですよね。英語と数学ができないと、そいつは勉強ができるとは言われないわけです。そういう他者基準があったから、他者基準に支配されていたからこそ、英語だ、数学だと言っていたんじゃないのか。思い直してみて、ああ、そうなんだと思った。
だから、自分の声を半分聴いていたけど、肝心なところでは半分聴いていなかったのかもしれません。聴いていなかったから、高3の夏休みになっても、英語にしようか、数学にしようかと、馬鹿みたいに迷っていた。決められない、どうしよう……。そんな間抜けな高校生だったんだな、と思って。自分の基準で、いいの悪いの、やりたくないのやりたいのと言っていたつもりの自分にしてからが、そういう程度だったんだな、と思って。
西
それはおもしろいですね。
前田
それまで生きてきた15年、16年っていったいなんだったんだろうなって。
で、今度は教師としての経験を考えてみたとき、なんで進路指導のときに、なんで生徒指導のときに、「生徒の自己了解を大切にしよう」ということを考えていたのかといえば、自分自身の高校時代を振り返りつつ、ああ、あれではだめだったな、という思いがそれとなくあったからだと思うんですよね。
タバコを吸った生徒に対して、「タバコを吸いたかったわけじゃないんだろ」と言ったとき、その子は最初、「何言ってんだよこの人」という顔をした。でも、少し話してるうちに、「あー、おれのやりたいことはそういうことじゃないよな」ということを言い出すようになった。進路指導でも、もちろんそういうことです。「やりたいことはなんなんだ」と。このくらいの偏差値、このくらいの成績であればこのくらいの大学に入れる。いやいや、そういうことではなくて、その先を聞きたい。というか掘り起こしたい。そういう気持ちがどこからくるかといえば、あのときの自分の間抜けな高校生活の反省としての部分も、少し入っているのではないか、と思うわけです。
つまり……自分をほんとうに認めてやるとか、自分を愛してやるということを、少年時代の自分はほんとうにできていたのかな、という思いをずっと抱き続けている自分自身がいたわけなんですよね。で、ルソーが『エミール』のなかで、原理としてそれを語ってくれていたので、ああそうだよな、そうだよな、とあらためて思いました。
まず、そこから考えるべきではないか、と。
佐々木
ルソーの『エミール』を読んでみると、情報をあまり与えたくないということが根底にあるような気がしています。今の子どもたちというのは、ほんとうに情報が多い。自分が何が好きかということが分からなくなっている面があるのではないでしょうか。前田先生がおっしゃっているように、「数学と英語が大事」という価値観が先に入ってきてしまう。ほんとうに数学が好きか自分で考える前に情報が入ってくる。そういう面から考えると情報量を減らしたい、ということがすごくあるんだと思います。
西
好きか嫌いか自分で吟味することって、大事ですよね。
数学については、僕は24,25歳くらいのときに、遠山啓の微分と積分などの本を読んで、おもしろいな、と思った。ところが高校時代は嫌で嫌で。というのはすごくたくさんの問題を解かなければいけなかったんですよね。短時間の間に。1時間になんでこんなに難しいのを6問も解かないといけないんだろう……みたいな感じでした。
佐々木
情報処理能力をひたすら高めるというような……
西
そういうことだったんでしょうね。「この問題のおもしろさってここにあるよね」だとか、「こうした概念を通して、こんな世界が広がってくるよね」など、そういう数学のおもしろさを先生は教えないし、生徒どうしでも、数学のおもしろみの世界を語り合うなんていうことはほとんどなかった。でも、ほんとうはすごくおもしろい世界のはずなんですよ。一つの概念を得ることで新しい世界が開けてくる、そうしたおもしろい世界なのに。もったいないといったら、こんなにもったいないことはないですよね。
僕自身の場合は、計算がそれほど不得意だとは思わなかったけれども、それでも急かされると焦ってどきどきしてしまう。数学って焦るとだめですよね。落ち着いているときだったらちゃんと解けるような問題でも、どきどきすると点数が十点以上低くなってしまう。それですっかり、この競走馬のように走らされる世界が嫌いになってしまった。
だから、おもしろさの世界を育むことってとても大事だと思う。あのとき何で先生たちがそうしなかったのか、不思議な気がしてしまう。
前田
僕の場合、ふだん計算をやってもらってる女の子に、試験の時は手伝ってもらうわけにはいきませんから……
一同
(笑)
前田
自分で計算すると、しばしば間違ってしまうんですよね。方針はいいけれども答えが違っている。
西
計算の力って刷り込みみたいな感じで、トレーニングしないといけないですものね。
前田
でも大学で政治学科に進み、政治学を勉強したら、これはとてもおもしろいものだと思いましたね。
西
なんで政治学を専攻することにしたんですか。
佐々木
心の声が聞こえてきたのですね。
前田
(笑)
いや、話すと長いんですけれども。
自分が何を勉強したいのか、どこに行けばいいのかわからなくなって、でもどこかに受からないとな、と思いながら教育学部の英語・英文科や法学部の政治学科などを受験し、受かった中で、これかな、これじゃないな、という感じで選んでいったんです。そのときの漠然とした基準というのは、自分自身が「全体をわかりたい」と思っているんだな、ということに気付いたんです。
西
教育という世界の全体を分かりたい、という感じですか。
前田
いや、社会について、その全体を……という感じですね。で、入学して勉強し出したら、これがはまってしまいまして、よかったなと思いました。そう思ったのは、さっきもいいましたが、これは自分が数学をちょっと好きだったことにもつながっているな、と思ったんですね。西さんもおっしゃいましたが、こういう概念を理解すると、こういうものの見方ができるんだということがわかってきた。自由主義という概念がわかった。そうかそれはこういうことなんだ。民主主義という概念がわかった。ああ、そういうことね、と。社会主義の概念がわかった。ああ、そういうことなんだ、と。
一つの概念がわかると、全体が塗り替えられていく。自分が面白いと思っていたのは、そういう発想自体と、自分のことやみんなのことをどう考えていくのか、考えるだけではなくどうしていくのか、それを考えることがまさに政治学の世界なんだな、というようなことがわかるようになり、おもしろいなと思ったんです。
西
そうですね。一つの言葉や概念が腑に落ちるように自分の中に入ってくると、ものの見方そのものが変わるんですよね。それは確かにいえますね。
前田
それで、また高校時代の話に戻りますが、数学の若い先生が学校の近くに住んでおられたので、お宅におじゃまして、「先生、数学って何を教える教科ですか?」って聞いたりしていました。
西
先生はどのようなお答えを……
前田
いや、忘れました。忘れましたけど、納得する答えは得られませんでした。その先生はとても生徒想いで、優秀な先生だったんですが。
西
でも、なかなか端的に答えるのは難しい……
前田
そうですよね。これってどんな教科ですかって、何を聞いてくるんだろうこいつは……という雰囲気も半分はありましたけど……
佐々木
哲学的な問いですよね。まさに本質観取という感じで……
前田
そうですね。まさに教科の本質という話にもつながりますよね。
で、結果としては政治学科に進み、それはそれでよかったと思っています。
政治の勉強を進めていくと、そのなかでどうしても哲学的な問いが生まれてくるわけです。社会を認識するって、そもそもいったい何なのか。社会的存在は、ほかの存在と違うのか、違わないのか。そんな感じになっていって……これ、あまり得意じゃないはずだった哲学の感じになってきちゃったなと。でも避けて通ることはできず、そこに迷い込んで今日に至る。そんな感じですね。
西
おもしろいですね。自分の関心に関心をもつことって、やっぱりいいことですよね。この言い方ってとても適切だな……
自分の関心に関心をもつということは永遠のテーマのようなところがあって、状況や条件が悪いと、その部分のところがぎゅーっと押し縮められてしまいがちになる。圧迫されて自分にも見えなくなってしまう。「ぼくにはこのことがいちばん大切なんだ」ということが常に確かめ直せるには、いろいろ話せる人間関係や、その反映だと思うのですか、心のなかのゆったりした空間が必要で、そういうことに気をつけていないといつの間にか心の空間が小さくなっていってしまう。
犬端
自分の関心に関心をもつことって、自己了解にもなるし、関係的に自分自身を開いていくための契機にもなる。自分のありようを見返す、ということですものね。これ、ちょっとまずいかも、だとか。これ、ちょっと自分を幸せにしていないかも、人も傷つけているかも、ですとか。自分の関心に関心をもつことって、そういうことにつながりますよね。
西
そういうことなんですよね。だから自己了解って結局、自分自身で、何が大事なんだろうとか、これをどう考えていけばいいんだろうっていうことを考えていくことに尽きる。でもそれは余裕のない。切り縮められた場の中では起こらないわけですよね。
犬端
そうですね。それができること自体が「大丈夫だ」という徴になっている気がします。調子が悪くなってくると、とたんにできなくなる。
西
そうですよね。
前田
高校生当時、英語にしようか、数学にしようかってぐちゃぐちゃ迷っていましたけれども、つまり、自分の生きる道に関心があったんですよね。進路を考えることがきっかけとなり、遅まきながら、そこにぶつかってしまった素朴青年だった……ということですよね。
ちょっと話が飛びますが、アダムスミスはセルフインタレストと同時に、シンパシーについても言っているわけですが、その原点を忘れたかのように、現代の社会科学というのは、「結局は私益でしょ。みんなそこで動いているんでしょう。組織も個人もみんなそうでしょう。」という感じになっているんじゃないか。最近では行動経済学などの動きもありますが、それにしても、ざっくりいうとそういうことだと思うんです。
で、「ほんとにそうなの?」って、いまさらのように思うんです。「自分の利益ってなんだよ」って。「EUを離脱する(しない)ことが自分の利益なのか」と、投票をした人は、ほんとうに自分自身に問えたのだろうか。そんなことを考えてしまいました。
憲法に関しても何に関しても、「自分の利益ってほんとうはなんなのか」と、うまく問えるのかなって。僕自身は、問えるような教育をしてきたのかなって。反省してみると、いやちょっと怪しいな、と思ってしまうんです。
で、原点はどこかと考えるとルソーの言っている「自己愛」にある。民主主義に対しての問題意識と、どういう人間を育てるのかということに対しての問題意識。民主主義のための人間を育てるわけではないんですよね。でも、結局は民主主義の人間も育つように結びついていく。そのためには「自己愛」が出発点になるということを、『エミール』は教えてくれている。
西
なるほど……確かにそうですよね。
「評価されたい自分が嘘の自分」ということだってあるんですよね。世間でよしとされるものに、自分もなりたい。有名大学に通ればうれしいし。それも嘘だとは思いませんが、でも、自分が生きていくときの柱になるような、「こういうときにほんとうにうれしかったね」ですとか、「こんなふうに人と関わったり、こんなふうにものごとができたりしたときがうれしかったです」など、そういう部分での自分の喜びや生き方を大事にしてよいのだということって……忘れがちですよね。
ルソーの『エミール』の場合、競争を徹底的に退けますが、この競争否定は極端すぎる感じもあります。でも、それにしても、自分が生きるときの軸になっていくものは、つまりは「自分を大事にする」ということかもしれませんよね。
犬端
人にとっての幸福は、ただ私利私欲を解放している状態ではないし、自己愛にしても実は関係的なものであり、価値的なものを含み込んだものだと思います。そのことは、人と関わり合い、語り合っていく場面の中で実感していけることですし……そういうことを納得し合える方向に表現の営みを展開していかないと、と思うんですよね。「私利私欲」だけでは幸せになれない、さまざまな価値をともに考え、つくり合っていく営みを通してこそ幸福感が得られる……という感度を実感的に得ていく機会が大切だと思います。
西
そうですね。ルソーは「自己愛」こそが人間のいちばん基盤だというわけですが、その自己愛が、前田先生の言い方まで含めると、「自己への配慮」にまで育つかどうかということだと思います。
『エミール』の場合だと、家庭教師が自分の言葉を受け止めてくれたり、「君はどう思うの」「こういうときどういうように感じた」というように言葉を返してくれたりすることが大きいのだと思います。そういう関係の中でしか「自己への配慮」は育たない。「自己への配慮」というのは、自動的に育つものでは決してないと思います。「自己愛」が関係的な喜びとなり、公共的な思考をも含めた基盤となり、「自己への配慮」となるように導くものは何かといったら、やはり対話の関係でしょうね。エミールのように家庭教師がいなくても、仲間と正直に話し合ったりできる機会があればそれでもよい。でも、そうした場面をまったくもてないまま競争関係に投げ込まれたりすれば、やはり「一番になるのがいい、それしかない」という感じになってしまうでしょうね。
だから、大切なのは、自己愛を育て、自己への配慮へともたらすことであり、そのためには対話の関係が鍵となる。……すごくはっきりしてきた気がします。
犬端
ルソーの場合「自尊心」を全否定するわけですが、自尊心って100%悪いものではないという気がします。「こういった自分になりたいよ」というように、自分に対する期待を込めて自分と付き合ってみることって必要ですものね。
ただ、ルソーのねらいもわかるような気がします。人との競争心に煽られ、人と比べて自分はどうかということばかり気にしてしまう負の側面を「自尊心」という言葉のもとで強調し、それを否定することによって、逆に可能性のみえる方向を探り出そうとしているのかな、と。世知辛い人間関係、意地の張り合いのようなことばかりに捕らわれていると、なんかすごく貧しい気持ちになってきますものね。
西
そうなりますよね。
犬端
「自分を大切にしたい」という思いが、「残念」なものになるか、「そうした思い自体を大切にし合いたい」ものになるかという分岐点に、ひょっとしたら教育が立っているのかもしれませんね。「自己愛」「自己への配慮」という言葉=概念を立てたうえで、「みんなで分かち合いたいような自分へのこだわりというものがあるとしたら、それは何だろうね」ということを考え合い、吟味し合っていけるのって、とても重要だと思います。
前田
「自己への配慮」というのは、やはり的確な言い方だと思うんですよね。昔、父親から「自分を大切にできない人間は、他人を大切にできないよ」と言われたことがあり、当時は「何、レトリックを使って気取ったことを言って」みたいに思っていました。でも、いまから考えてみると、ああ、そういう意味も含んでいたんだな、って思いますね。父親はルソーは読んではいなかっただろうけど、そういう感じを体験の中から得ていたんでしょうね。
それに、「自己への配慮」というのは「共感性」とセットなんですよね。
西
その通りですね。
滝沢
いまおっしゃってくださったことは、僕自身も自分にたずねてみて、そうだよね、と思えることではあります。でも、その反面、それを素直に認められない自分、他人との関係を通して培われてきたからこその「今」であるはずなのに、そこを認められないで懐疑してしまう自分もいます。ちょっと生活がうまくいかなかったりすると、特にそうですね。「自己への配慮」というのは、他者との関係をとてもよく考えたうえで、自分の可能性を広げていくことなんだよ、ということを、つい忘れてしまい、頑なに、自己中心的になってしまっているときがあるように思います。
その感じを、学校に子どもを通わせている親たちに重ねて考えてみると……現実として競争原理が働いているなかで学校に期待するものというのは、一体何なのでしょうか。他人とのつながりをわが子にも習得させてほしい、せめて学校でそれを学ばせてほしいと思っているのだろうか。いやいや、これからの時代というのは、グローバルな視点が大事といいながらも、実はより過酷な競争が待ち受けている。だから競争に勝ち抜くためのスキルを身に付けてほしい。そう思っている人のほうがまだまだ多いような気がします。
正直に言って、僕はついそんな目線で見てしまうところがあるんです。
犬端
そうですよね。自分自身が不安定なときというのは、つい意固地になったり、冷静に考えることができなくなったり、ということがたしかにあると思います。
……でも、どうなんでしょうかね。「こうした方向を大切にできたほうが、自分にとっても、関係にとってもよい」というものを持てること自体が、そもそもそんな不安定な自分自身を持ちこたえながら生きていくために必要だと思っている節が、僕自身にはあるんですよね。そこに近づいていければ、自分も納得できるし、現実的にも関係的にもよりよい展開を確信できる方向を持てるということが。それが持ててこそ、いま現在自分がそこから離反しているとすれば……離反しているな、と思っているからこそ、不安を感じているわけですが……何が足りなくてそこに向かえていないのかが多少ともわかるようになるし、自分がほんとうは何を望んでいるのか、そのためにはどうすればよいのか、という方向が見えてくるようにもなる。そんな感じはしています。
前田
その子が慶応に行きたい、というのであれば、教師は行かせたいんですよ。それは競争の問題じゃないから。この子が早稲田に行きたい、というのであれば、がんばらせてあげたいと思うんですよ。でもそれは、競争の問題ではなく、子どもたちの自己実現につながっているからこそ、そうするんですよね。
だから、現実はこういうふうになっている、こうした考え方をもっている人のほうが現実には多いから、その考え方は理想にすぎないんじゃないか、ということではなくて、親御さんも含めて、生徒ひとりひとりも含めて、自分の声をきくようにしよう、こういうふうになっていこうぜ、ということじゃないでしょうか。そのためにどうしたらいいか、ということですよ。未来のために、今を犠牲にするというのではなくて。
たとえば道徳教育に対しても、いままで「反徳目主義」ということを何十年間繰り返してきた面がありますよね。それはそうなんだけど、それだけじゃだめだと思うんです。そうではなくて、大事なのは「自己への配慮」ですよ、それは「自己愛」から始まるんですよ、ということを教育現場のなかでどれだけ言えるか、親がどれくらい言えるか、周りの大人がどれくらい言えるのか、ということに関わってくるんじゃないか、と思うんです。そうした、「アンチ○○」という姿勢ではなく、原理をつくり乗り越えていこうとする発想が、ルソーの中から見いだせるんじゃないかと思っているんですよね。
滝沢
さっき僕が言ったような、理想か現実かというような形式的な、二元対立的な発想ではもう前に進んでいかない、ということですよね。「自己への配慮」という原理で考えていくことで、可能性が開けていくのではないか、と。
前田
そう思っています。また、僕自身、そうした動機で今回はルソーを読みました。
西
社会というのはその人の有用性を大事にするものなので、「成績」にしても全否定できないものではありますが……いまの時代、「わたしの関心に関心をもつ」ことを大事にすると、結構分裂するわけですよね。よい成績をとって、社会のなかで有用有能とみられる人間になろうと思う人もいる一方、非常にプライベートなものにしか自分の自由を感じられず閉じていってしまう人もいるように思います。
ヘーゲルの『法哲学』の「市民社会」論では、がんばって仕事をすると「いい仕事しているね」と周りも認めてくれて、自分自身も幸せになれる、という、今からみると牧歌的な世界観が背景にある。でも、僕らの時代だと、プラトンではないけれども、それぞれの思いを出し合い、自分にとって大事なものは何かということを語り合える対話の空間、自分を受け入れ、見つめられるようなゆとりをもった空間を意識的につくろうとすることが必要になっていると思います。
僕は「表現の関係」という言葉をよく使っていますけれども、構えることなく自分の思いを出し合える対話の空間があってはじめて、自分の魂の中に自分の声を聞き、自分自身を配慮するという空間ができてくる。そんなイメージがあるんです。
前田
対生徒との関係の中で、これは大事にしたいなと思っていたこととして、「ちょぼちょぼ意識」というのがあります。「俺もたいしたことないけれども、お前もなあ」という感じで、生徒と話していた。あるいは話さなくても、そう僕が思っているということに生徒は気が付くんですよ。特に心を開きにくい子に対しては、ちょぼちょぼ意識を意識的に出すようにしていました。
もっと簡単にいえば、自分のほうから、自分をさらけ出すというか、心を開いていくというか……そういう関係が大事だということですね。そういう関係のなかであれば、その子がその子自身の声を聴けるようになるんだな、ということを、ある時期、毎日のようにやんちゃ坊主と話をしているときに思いましたね。
西
そうですね。自分の声を出せるというのはね……相手があまり立派だったら出せませんものね。いやほんとうにそうですよね。
自分の声を聴くというのは、「しょうもないところもある」ということも含めたうえで、自分の中でそれを受け入れるということだから。不良少年にあまりに偉そうな道徳の先生が出張っていっても、しゃべれないですよね。
佐々木
そうですね。特に思春期のころって、「自分ってなんだろう」ということで揺れていますしね。生きる価値がないんじゃないだろうか、などと思ったり、またある日はすごく偉いように思ったり。その繰り返しという感じで。
犬端
それはほんとにそうでしたね。
西
自尊心が揺れ動いている感じなんですよね。
佐々木
特に中高生時代というのは、自分のポジションというのがなかなか掴めずに揺れている。
滝沢
「お互いちょぼちょぼなんだから」というところから、生徒さんが培い、感じ取ったものというのは、就職したり大学へ行ったりした後でも、おそらく、陰ひなたに少しずつ息づいていて、自分を見つめたり、人と出会ったりするための軸になっているんじゃないでしょうか。
前田
そうであればいいと願っています。
以上