第7回「本質をつかむ学び」を実現するために

 


「アクティブ」にめざしていくのは、どこなのか

犬端

今日は先日前田先生にお書きいただいたエッセイ、「本質をつかむ学び」について、話し合ってみようというテーマですよね。まず、執筆の背景にあるモチーフについて、前田先生からお話しいただければと思うのですが……。

 

 

前田

僕が学校現場を離れ、教育センターに入り、校長になって、というその10数年の間、教育界は改革につぐ改革の連続でした。1990年代の半ばから今に至るまで、それが現在進行形なんですよね。カタカナの「なんとか教育」という言い方のもとに、次から次へと改革が提唱され、今はアクティブラーニングですよね。現場の教師としては「またかよ」という感じが否めないのではないかと思います。

 

それで、どの改革と称するものも、指導主事として関わっていても、校長として関わっていても、上滑りしているように思えてしかたがありませんでした。これはまずいのではないかと。文科省のほうが、「主体的な学び」などと理想的なスローガンを掲げ、現場の側が「それどころではない」と反応を返す。理屈や理想はいいから、俺たちの働き方を改革するなら改革してくれよ、もうアップアップだよ、たいへんだよ、と。そういうちょっとねじれたような構図が、もう10年も20年も続いているような気がしています。

 

僕自身としては、責任ある立場にいた者として、それらの改革をうまくコーディネートできなかった挫折感がずっとあります。どうしてうまくいかなかったのか。いったい僕自身はどういう学びを成立させたかったのか。それをもう一度考えてみよう、という思いがこれを書いた背景にあります。

 

それで、それが要するに何なのかというと、ちょっと拍子抜けするほど単純かもしれませんが、ここに書いた通り「子どもが学ぶ主体になる学び」なんですよね。

 

前回のルソー論につなげていうと、ルソーの場合「消極教育」と呼ばれてはいるものの、実は「子どもが学びの主体となる」ことを何より大切に考えていたんではないか、という直観が僕にはあります。それで、自分にしてもそうだなと。いや自分もそうだなどというと不遜ではありますが。

 

「主体的な学び」ということについては、まさしくその通りだと思いはするものの、何を学ぶのか、何を考えていくのか、何をとらえようとするのか、という考察が足りないのではないか。現実には「個々の事実」をとらえることに終始しがちなのではないか。それに対しては、いやいや、大切なのは本質をつかむことでしょう、ということが言いたい。本質をつかむ学びまで行かなければだめだよね、と……。

 

これまでの改革も、いま進行中の改革も、そこには言及していないのではないか。学ぶ主体となりつつどこに向かっていくのか、ということは大事ですし、それは即ち「本質をつかむ学び」ということになってくるんじゃないか。そんな思いから、このエッセイを書きました。

 

犬端

そこでの「本質をつかむ」ということは、前田先生のもう一つのキーワードである「共有価値をつかむ」学びと、近いものだと考えてよいのでしょうか。

 

前田

それはまったく一致したものだと考えています。まずそれぞれの思いを出し合い。これがポイントだよね、これは共通しているし、みんなで共有できるものだよね、ということを確認し合うことを通して、共有価値、共通本質というものを得ていく。そんな経験を学びの場で得ていくべきだし、さらにはそうした感度そのものが世の中に広がっていかないと、子どもも育っていかない。そういう相互作用が大事なんじゃないかと思います。

 


「主体的な学び」を困難にしているものは何?

滝沢

自分なりのアンテナで昨今の教育界の動向を受け取っているのですが、つい最近、文科省のHPで中教審のまとめが出ていましたので、それを読み考えてみました。その中で、アクティブラーニングの定義として、「主体的」であり、「対話的」であるという言い方がされていました。それは大切な視点だと思いますし、現場の先生方もこうした動向に期待をもって臨んでいけるのではないか、というように楽観視していた感があります。

 

でも前田先生のエッセイを読んでみると、果たしてそうなのか、それはまたしても上滑りなものになってしまいはしないか、とよぎりました。深く考えていかなければと、思います。先生の数が必ずしも十分ではないなか、教科書もしだいに厚くなり、小学校には英語教育が導入されようとしている。或いはまた、プログラミングの学習も導入されようとしています。そのどれもこれもアクティブラーニングの形で、ともに学び合っていく授業で行うということになると……「主体的な学び」「対話的な学び」という軸がおろそかにされ、ただ形だけ話し合い、活動を行い、というように形骸化してしまうのではないか。しっかり諸条件を考えていかないといけないのではないか。でもそんな「主体的な学び」を具現化するのに必要な条件がなにも提示されていないなかでは、そうした畏れがどうしても残されてしまうのではないか。そんなことを考えさせられました。

 

前田

僕は楽観視していないです。僕が現場を離れてから状況は好転しているのかもしれませんが、数年前までのことを考えると、とても楽観視はできないですね。

 

佐々木

私自身の場合、例えば英語に関してはずっと文法中心の学習で育ってきたわけですが、学校の先生方にしても自分自身の経験知のもと構築された枠組みのもと、心の底からよいと思えるものを提供しようとすることがあるように思うんです。そうすると、たとえ社会の英語に関するニーズが、厳密な文法に拘泥することではなく、会話力を身に付けていくことにあるとしても、先生方ご自身がそう学び、自分の中に形成されてきた価値観を変えることができない限り、授業を変えることはできないのではないか、というような議論がなされていることをうかがったこともあります。

 

 

滝沢

たしかにそういうことはありますね。先生方にしても、受験勉強中心の学習を自分自身は経験しているわけですよね。その学習経験がそのまま自分の授業のしかたに無意識裡に反映されてしまうことは少なからずあるように思います。

 

西

先生どうしでいっしょに学び合い、「この教材はここが大事なんじゃない」など、お互いの思いを交換し合える場面を作ることができればよいのですが、現実にはなかなかそうできない状況があるように感じています。

 

いまの若い世代の人たちを見ていると、ある種「生き方の幅の狭さ」みたいなものを強要されているというか……途中で道を外れていろいろなことを試してみることが許されない、そんな風潮のなかで育ってきた印象を受けることが多いのです。外れないように、落っこちないように、集団から浮きすぎないようにと気づかいながら育ってきている。

 

心理学に「安全基地」と「探索行動」という概念があります。お母さんやお父さんが安全基地として存在していることで、子どもはそこから冒険ができる。安全基地があってはじめて探索行動に踏み出していける。これはおもしろい考えだと思います。それでいうと、冒険や探索行動として経験の幅が狭くなっているように思います。それを許されない雰囲気のなかで多くの子どもたちが育ってきている。

 

若い先生方はすでにその世代に突入しています。自分自身が児童・生徒だったときに、自発性や自らの興味を展開しながら学びを主体的に作っていった経験――そのためには先生や学びあう仲間が「安全基地」になる必要があるわけですが――をもてなかったとすると、いくら上の方からアクティブラーニングに取り組めと言われても、どうすればよいのか考えあぐねてしまうのではないでしょうか。「あ、それって要するに、あのとき自分自身が体験したことだ。おもしろかったな。どうすれば自分もあんな授業ができるようになるんだろう」……そんなふうに考えていくのが難しい状況にあるように思います。

 

前田先生の言うように、アクティブラーニングというスローガンのもと推進されている改革が、決して上滑りすることなく、子どもが主体となる学びを現実化する契機としていくためには、まず先生たちの職場である学校の雰囲気そのものが自由にもの言える空間であること、「それ変じゃない」「もっとこうしたほうがおもしろいよ」などなど、先生たちどうしが声を出し合い、学び合える環境にしていかないと……そう思うんですよね。

 

先生自身が子どもたちとの学びの場を、創意工夫をもって楽しんでいけるようにしないといけない。「こうしてみよう」「ああしてみよう」というように、「探索行動」ができるようにしていくことが大切だと思います。さらには、先生たちどうしの共同的な探索行動が展開されていくことも大事ですよね。「自分はこうしているけれど、滝沢さんはどう?」「あ、その発想はいいね、もらった!」ですとかね。

 

かつての前田先生のように、まずは校長先生が安全基地となり、そういう場を作り出していくようにしないとアクティブラーニングは難しいと思います。いろいろトラブルが起きたとしても、校長が守ってくれるという安心感があれば、積極的にチャレンジしていけるようになる。自分たちの考えをどんどん口に出していけるようにもなる。みんなで工夫し合っていこうとする雰囲気がまず大事ですよね。アクティブラーニングを一人でどうしよう、こうしようって考えるのって、そもそも変ですものね。

 


「革新」はいつ生まれ、何をもたらすか

滝沢

前田先生は今度のエッセイの中で、「知識とは何か」ということに触れていますね。ただ語り合いました、活動しましたということではなく、みんなで議論し合いながらも、最終的にはそれぞれが自己了解を深めると同時に世界を知り、本質をつかんでいくような知識とか世界理解へと高まっていくようにしないと……という発想がそこにはあるのではないかと感じています。

 

犬端

僕も、「自分の生きる文脈を豊かにすることにつながってこそ『知識』は初めて意味あるものになるのではないか」というメッセージを感じ取って共感しています。自己の生の文脈が豊かになるということは、同時に関係的な生に開かれていくことを意味していると思いますし。前田先生がエッセイの中で具体的に書かれていましたが、歴史学習の場合、ある関連性のもと、即ち人々が生きてきた文脈のもとにとらえようとしたとき、個々の事象を意識的に暗記しようとしなくても、自然と自分の中に入ってくるようになる。さらに、自分なりの問いをもち、自分の生きている文脈につなげてそれをとらえようとしたときに、新たな発見が生まれてくる。そうしたことを実感できる経験を一度でももてたら、歴史だけではなく、いろいろな場面で展開していけるようになると思います。

 

そうしたブレークスルーって、いつ起きるか分からないような気がするんですよね。たとえばこれまでそうした経験をせずに先生になった若者が、教員になってからそれを経験することだってあるかもしれない。

 

西

そうですよね。

 

滝沢

それは大いにありえますよね。

 

前田

自分自身のことを振り返ってみても、教員になってからもずっと「学びの主体」だったんだと思います。でもそれが、「教育する主体」としての自分とうまく結び付けることができなかった気がします。歴史にしても何にしても、自分自身が学びを掘り下げたり、広げたり、などということをみなそれぞれやっているわけなのですが、受験指導だったり、生徒指導だったりなどの厳しい現実の前で、「それはそれ。これはこれ。」というような分裂が、もうずっと続いてきているように思います。

 

そうか、僕にしても他の教員たちにしても、ずっと学ぶ主体だったんだな、という思いを、いま話をうかがってもう一度思い起こしました。そこが僕の出発点ですね。そこからもう一度考えたいです。

 

ちょっと話が変わりますが、僕は、「まず主体性があり、主体的な学びを行う」ということではないような気がしています。「学ぶなかで主体になっていく」というのが僕の基本的な実感です。それをつかまえること、それを本人に気づかせることが、教師として重要なことだと思います。そこを抑えていかないと、「主体的な学び?はいはい、分かりました。子どもに発言させればいいんでしょう、意見を言わせればいいんでしょう」ということになってしまう。「協働学習?はいはい、みんなで話し合わせればいいんでしょう」というように。いやいや、そうじゃなくて、どこの時点でこの子が学ぶ主体になっていったのかということへの気づきを、教師は何よりも大事にするべきだと思うんですよね。

 

西

そうですね。それはとても重要な視点ですね。「それっておもしろいね」「それは僕も気がつかなかったことだけれども、大切なことだよね」など、自分の発想を受け取って返してもらえる経験というのは、自分自身のことを振り返ってみても大きな支えになりますよね。

 

心理学に、「モニタリング」という概念があります。子どもの感情や思いを言葉にしてあげたり、受け取って返してあげたりすることがモニタリングとよばれていて、それによってはじめて子どもは自分の感情を自覚できるようになると言われています。

 

「受け止めて返してくれる」ということは、ある意味「許されている」わけですよね。

怖い親で、子どもが自分の感情や感覚の表出を許されない場合、自分が今さびしいのかうれしいのか怒っているのかということよりも、いつも親の機嫌を気にしないといけなくなり、自分の感情を自覚できなくなってしまう。その反対に、ちゃんと受け止めて返してもらえるという経験はとても大事で、「おもしろいね」と言ってくれるだけで、うれしかったり、自分が何かに気が付いたんだ、ということに気づくことができたりもする。

 

そういうことが、子どもが主体になっていくときの要だと思うんです。子どもが「学ぶ主体」になるためにも、「そう思ったのか。なるほどね」というように反応を返してあげるのが重要だと思うんでよね。「これってやはりおもしろいことだし、おもしろがっていいんだ」という確信を得られてこそ、はじめて「学びの主体」になれるものではないでしょか。

 

滝沢

モニタリングしてもらうことで、これでいいんだ、じゃあもっとこれも調べてみようという形で、追究や探究が広がっていきますよね。受け入れてもらえたというその反応は、きっと応答とか共有へとつながっていくのではないか、自信をもつことにつながっていくのではないか、と思います。

 

今回の前田先生のエッセイで、僕がもう一つ心に残ったのが「革新」という言葉なんですよね。

 

前田

そうですね。さっきもちょっとそのことに触れてもらいましたが、僕は受験のために歴史を勉強しているとき、関連性の中で理解すれば事実は覚えられるということが分かり「これはおもしろいな」と思った。今思えばそんなことは当たり前なわけですが、そのとき自分の中では「発見」だと思ったんです。

 

ただね、そのときは、「自分がどう思おうと、まず事実がある」というのが僕の世界観でした。後に教員になったときに、「物事はすべて関係性のなかである」という気づきがやってくるようになったんです。いったんそう気づくと、もう自分の世界観そのものが一変してしまう。それまでとは全く違ったステージに立ったうえでものを考えるようになっている。そうした経験を僕は「革新」と呼ぼうとしているんですよね。

 

西

なるほど……。革新、イノベーションですね。

 

前田

そうなんです。まさしくイノベーションだと思います。

で、それがやってきたきっかけは、子どもとのやりとりを質的に高めていくにはどういうすればよいのか、という問いからです。「自分にとって物事がどうなのか」ということだけでなく、「子どもにとってその物事がどう受け止められているのか」「子どもがそれをどう認識しているのか」を考えるのが大事ではないか、という発想が自分の中から出てきたんですね。竹田さんや西さんの哲学からも示唆を受けました。まず客観的事実ありきではない。ああ、やっぱりそうなんだよな、と。自分の中であやふやだったものが、はっきり意識できるようになってきた感じでした。それは、大学受験生だった自分が、「事実」「関連性」などと言っていたのとは違ったステージで、ものごとを考える視点を得たことを実感できた経験でしたね。

 

犬端

まず客観的事実ありきではない。……自分自身と同様に、それぞれの人たちがそれぞれの主観のなかでものごとを受け止め、世界観を形成していることへの気づきが、それまでのものの見方を刷新する「革新」と呼ぶべき経験となった……ということでしょうか。

 

前田

そう。そうなんですよね。

それで、実は僕には、もう一つ「革新」と呼べるような経験があります。全てが主観の中での確信であるとすると、人それぞれでいいじゃないか、ということにもなりかねない。もちろん人それぞれの考えを尊重するのは大事ですが、悪く言えば「そこから踏み込むな」ということになってしまう。教育界でも世の中全体でも、そうした風潮が強まっていくのが気になり始めたんです。「このままじゃよくないな」と。それで、自分が「よくない」と感じているのはなぜなのか、と考えるようになりました。すると、なるほど「人それぞれ」というのは重要ではあるけれども、それを踏まえたうえで、「こういうことは共有化していかないと」ということを考えない限り前には進めないぞ、という気づきがまた生まれてきた。そうはっきり確信できたのが、次の革新ですよね。

 

西

それはすごく大事なことですよね。

 

前田

指導主事時代、竹田さんに教育センターに来てもらったとき、この話をしてみたことがあるんです。僕は二回「革新」と呼べる経験をしています。一回目はこういうことで、二回目はこういうことで……と。そのとき、「ああ、なるほど」竹田さんが言ってくれた。その感じははっきりと覚えています。

 

犬端

前田先生がいま言ってくださった「革新」とよぶべき経験……こう考えたほうがよほどよい、いやこう考えないと前に進んでいけないという契機がやってきたことは僕にもありました。

一度目はやはり、「最初に客観事実ありき」ということではないんだな、ということへの気づきでした。日頃「客観的世界がある」ことを前提に生活しているわけですが、それにしても、「自分がそう物事=世界を受け止めている」という場所から離れてしまうことは決してできない。自分にしても、おそらく他の人たちにしても、「主観の中での確信」として、世界像を形成しているのだと。すると、「人それぞれ」という現実、多様な価値観があるのは当然のことなんだ、という構えが出てくるようになった。

 

それは、「価値観の違う他者の存在を認める」というように、自分自身の世界観の刷新につながっていった……というか、価値観の異なる様々な人たちとの出会いを重ねていく中で、そうした発想が生まれてくるようになったようにも思います。

 

でも、それだけだとやはりつらくなる。全てのことは人それぞれ、よいわるいは全て価値観の違いの問題だ、ということになると、「これはよい」というものを確かめ合い、共有化していく可能性と期待を抱けなくなってしまう。それは相当つらいことですよね。

 

そんな状況のなかで竹田さん、西さんの哲学、現象学が自分の中に入ってきたことを覚えています。それは前田先生のおっしゃった、二度目の革新の経験に重なるものだと思います。それぞれがものごとを受け止めている、その地点を足場にしたうえで、共有可能性を探っていくための思考の原理として現象学があり、哲学そのものがそうした発想に基づくものなのだ、という竹田さん、西さんの言葉が、それこそ腑に落ちるように入ってきた。「それぞれの場所」にしっかりと立ち、そこを起点にしたうえで確かめ合っていくからこそ、自分自身がより納得できる物事への理解、自己了解が生まれるとともに、他者と共有価値を得ていく可能性も開かれていくのだと。

 

前田

たしかに、それぞれの現場で同じような体験をしている人がいるのではないかと、思います。そこから、もっとつながっていくことができるのではないかとも思いますね。

 

滝沢

出発点も最終的な着地点も、自分の中で理解していくこと、気づいていくことにあるのではないか、ということですね。客観世界と言っても外部と言ってもいいんだけれども、それが自分のなかで合点がいった、理解ができたということは外せないし、それは同時に、自分だけではなく、他の人にとってもそうだという同一性というか共感性を伴った共有をしていることが大事。……そんなことでしょうかね。思えば「本質」というものも、そうしたことに関わっているのかもしれないですね。

 


現象学の発想。その可能性をもう一度確認してみると……

西

事実にもとづく共有というのがありますよね。しかし語り合いながら本質を共有する、というのはそれとは質のちがうものです。そのことを話してみたいのですが。

 

例えば、滝沢さんはいまこのコーヒーカップを見ていますが、「自分が見ているからそれが存在している」とは思っていなくて(笑)、「自分がいようがいまいが、これはここにある」と思っている。自分から突き放されてそれはそこにある、と思っていますよね。

そのように、事実を知覚するとき、その背景には、「私にとってある」ということだけではなく、「これは他の人にも必ずあるはずのものだ」という確信がある。知覚対象(事実)は、自分から切り離されていて、他の人にとっても存在するものであって、つまり「共有現実」という意味を帯びているわけですね。

 

自然科学はそうした知覚した事実をもとにして……それは実験結果として書き留めることができるものでもあるので……「世界ってこうなっていますよね」という共有知をつくことができるわけです。

 

でも、フッサールの言っていることは、そういう自然科学的な意味での、事実にもとづく共有性があらゆる学の基本になるとまずいですよ、ということなんです。事実にもとづく方法では、価値(よしあし)とか情緒については共有知をつくれない。ではどうやったらいいか、というところに、現象学の方法が必要になります。一言でいうと、「体験世界のあり方」について自分自身を確かめ、相手の感度を聴き、そして共有できるところを共有していく、というやり方なのですが。

 

たとえば「幸せ」ということについて、共有することが可能か?という問題があります。たいていの人は、「それは共有できないんじゃないの?」と思いますよね。じっさい、「本当の幸せとは何か」と問うと、「僕はこれが本当の幸せだと思う」「私はこういうことだと思う」というふうに、意見がいろいろ出てくるわけです。つまり本当の幸せというのは一個にならないんですよね。「本当」とは言っているけれども、要するに、その人が理想とする「幸せ像」であり、多様であってよい領域だからです。のんびり生きたい人もいれば、それこそイノベーションが続く刺激ある人生を幸せだと思う人もいる。それはいろいろあっていいものですよね。

 

そうしたことをお互い聞き合ってみると、「人間けっこう違うものなんだ」ということが分かって、それ自体がおもしろかったりもする。でも、それを今度は現象学的に展開していくと、こんな感じになります。

 

まず「幸せとは何か」ということを、「どんなときに幸せになるのか」という問いの形に変えてみるんです。するとその答えはもちろん多様ですが、しかし全くバラバラな違ったものではなく、いくつかの感度・種類に分けられることがわかります。

 

僕が和光大学にいたときに教えていたある学生が、いろいろな人に「あなたが幸福と感じるのはどんなときですか」というロングインタビューをしてみたんですね。10代の男の子、30代の主婦から、ふつうのサラリーマンに至るまで。すると、「自分のことをこの人は大事に思ってくれているんだな、というのがしみじみ伝わったとき、本当に幸福だなと思う」ということは全員に共通している。それは「本質」の一つなんですよね。

 

「真の幸福とは何か」と問うても、答えは決して一つに決まらない。それは一人ひとりが何を理想としているかという問題なので、多様であるし、また多様でなくてはいけない。でも、「どんなときに幸福を感じるか」という問いの形にしてみると……例えば「家に帰って暖かいごはんを食べるとき、すごく幸せだと思う」というのが出てきて、「ああ分かる、分かる」という反応が返ってきたりする。「温泉に入ってくつろいでいるとき、ああ幸せだとつい口にしてしまう」「それってあるよね」ですとかね。

 

そのようにお互いの体験を出し合ってみると、「ここって通じているね」というものが見えてくるわけなんですね。もちろんお互いの感度の違いも出ますし、その確認も大切ですが、共通のものも見えてくる。それを発見できるのが、現象学の方法の大切な点です。「唯一本当の幸福」ということではなく、幸福がそれぞれの人の体験の中にどのように現れているか、現象しているのか、というところに着目し、言葉という道具を使い、相互の体験を照らし合わせていくことで、いろいろな了解が進んでいく。

 

すごく楽しいことを「幸せー!」というときがありますね。最上級の、というか、いまは他に何もいらない、満足に浸っていることを表す一群がある。

でもそれ以外の「幸せ」もあり、その典型の一つは……例えば海外などで悲惨な災害が起こったのを耳にすると、「こうして平和に生活できているだけで幸せだね」という言い方をしたりしますよね。その場合、別に喜びがあるわけではない。喜びはないけれども、「自分の人生は恵まれている」という感受が出てくる。

 

そこからさらに考えてみると、人が自分自身の人生を対象として意識したうえで、「人生よいものであれかし」と願うことが、実は幸福というものを求めようとする背後にあるのだという事情が見えてきたりする。「自分の人生」という対象を……これは他の動物にはない、人間だけの対象なわけですが……肯定したいという次元を人間が抱えていることが、絶えず幸福を求めようとする願い、「幸福ってなんだろう」という問いを生み出していることが見えてくる。

 

具体的には、自分のことを大事に思ってくれている人がいると思えると、じーんと温かくなり、「幸福感」に包まれたりするわけですが、それは同時に、「こういう幸せな時間をもてた自分の人生はやっぱり恵まれているし、生きていることに感謝!」という想いにつながっていくことが多い。

 

このように、「どのようにわれわれの体験に現れ出てきているのか」というのを出し合ってみると、「自分では思いつかなかったけれども、たしかにそれはある」という気づきが生まれ、お互いの生きている世界の中での感じ方や思いの中に、感度の違うところ、違っていいところ、ここは本当に同じ思いをもっているんだな、というものがあることを確かめられる。そのように語り合いの世界を繰り広げることができれば、すごくよいことではないか、と思っているんですよね。本質観取の営みを、そういう形で行い、そういうことが実際にできるんだよ、ということを広めたいという気持ちがあります。

 


「知識」の本質とは何か

前田

西さんのお話をうかがっていて、ずっと考えてきたことが分かってきたような気がします。何が自分の考えの中で足りなかったのかということを含め、ですね。

 

知識というものが知識足りうるには、共有可能でなければならない。そこがすごく大事なポイントであり、「僕はこういうふうに気づいた」ということをその子の中だけで溜めていると、その子だけの気づきで、個人化しているだけですが、それを共有化していけると、気づきが知識へと変化する。そういう学びの過程をそれこそ共同化したいし、共同化できるのではないかと思うんですよ。

 

西

実は知識ということに関しては、言葉としては使い慣れていても、分からないことがたくさんあるように思います。ただなんとなく、知識というものには、メモライズ、記憶することとは違った次元があるのではないか、気づきの次元があったり、自己了解と僕らが呼んできた次元があったりするのではないか、ということは受け止められているように感じます。

でも、そういうことをはっきりさせないまま、知識ということが言われ続けてきたのではないだろうか。実は哲学の中でも、学びとは何か、特に知識とは何かということが、あまりきちんと考え詰められてこなかったのではないかという思いがあります。ですから僕も、「知識」への考察がこれから大切なポイントになるのではないかという気がしています。

 

滝沢

教育の世界でも、「生きて働く知識」とか「知識活用能力」「問題発見。解決能力」ですとか、いろいろ多面的な観点から言われてきてはいるわけですが、その内実をよく吟味しないまま、ただキーワードとして掲げられているだけで、みんなが納得できるような形には体系化・共有化が十分にされていないように思いますね。

 

佐々木

特に、いま前田先生がおっしゃったように、体験自体を共有化することができればそれが知識となる、という言い方はあまりされていないように思います。

 

西

確かに気づきを共有化できれば、それが知識といえるものになるかもしれませんね。みんなが、自分のこれまでの体験に照らし合わせて、「やっぱりそれはそうだ」と言えるようなことがね……

 

滝沢

そこが強調されてもよいように思いますね。

 

前田

教育の世界で考えている人たちの間では、「知識というのは断片的な知識ではない」ということ自体は、ほぼ共有できているのではないかと思います。

 

西

そうですね。関連性の中で、ですとか、文脈の中でとらえていくことが大事、というように。

 

前田

そうですね。実は知識を「身につける」という言い方にも、僕自身少し違和感があります。服を外から着るようなイメージを言葉の上から感じてしまうんですよね。外から何かを与えられて習得するというのではなく、「生み出す」……というとちょっとナイーブすぎる表現かもしれませんが、内面から湧き上がってくるようなイメージが大切だと思います。本当は内外の相互作用が働くなかで「身についていく」ものでしょうけど。

 

例えば「民主主義が身につく」場面というのは、そういうことだと思います。「大統領制とは何か」「議会制民主主義とは何か」などということを、ただ言葉の上で理解しただけでは、それは身につくものにならない。集団でのさまざまな活動のなかで、「こうだね」「いやこうじゃないか」など、話し合ったり対立したりを繰り返しながら、ともに進んでいく方向を見つけ出していく。その経験を通して、「ああ、あのとき先生が言っていたのはこのことだったのか」というようなことが、腑に落ちるように分かっていく。そういう過程によってはじめて身につくものだと思うんですよね。

 

滝沢

相互作用の中で、何かが応用できる、活用できる……ですとか、他人に分かりやすく伝えることができるということを含め……知識と呼ぶべきものではないかと……。

 

前田

そういうことも含めて、ということでしょうね。少し前から盛んに使われるようになった「リテラシー」という概念もそれに当てはまると思います。

ただ何よりも、今まで自分自身が歩んできた生のありようそのものとうまく結びついてこそ、「ああ、そうだね」という納得がおとずれ、本当に身についたものとなる……という感じじゃないかと思いますね。

 

滝沢

エッセイにも書かれていますが、それが実は当事者本人も教師も、当初は気がつかないことがよくある……

 

前田

残念ながらそうだと思います。ただ、こうして「残念ながら」ということばかり言っていると、それが風化してしまうんですよね。だから、ぜひとも気づこうね、ぜひとも共有していこうね、ということになりますね。

 

犬端

そうした機会をもてることって、生きていくうえで大きなことですよね。あるものの見方が身につくことで、世界観が刷新され、そこから可能性がみえてくるという経験は、非常に大きなものだと思います。先ほどの「革新」の話にもつながることだと思いますが。

 

西

そうですよね。また優れた哲学というのは、そうした力をもつものですよね。一度その地点に立てば、ものの見方が逆行しないというように。

 

犬端

言葉の交わし合いの中で自分の中に蓄積され、身体化された知識に手がかりを得ながら、他者や物事の出会いを重ね、それをさらに刷新していく……それは、言語ゲームの中で自分の世界を編み上げ、編み変えながら生きている人間の根幹に関わる部分かもしれませんね。知識という概念そのものを、そうした形で共有化し、展開していくことができれば、そこから広がっていく可能性も大きいのではないか、と思います。

 

前田

そうですね。僕自身ももう一つ言いたいことがあって……少し前から「知識基盤社会」という言葉が言われていますが、個人個人のレベルでも、それまで身につけてきた知識を基盤に次の新しい知識が生まれてくるような展開を、表面的なものではなく大切にしていきたい、という思いがあるんです。

 

滝沢

「知識基盤社会」という言葉はたしかに流通していますが、いま話してきたような意味合いのもとに語られてきたかというと、そうではなかったように僕は感じます。第一次産業や第二次産業が、作物であったり機械であったりなど、物の価値を生産していたのに対し、叡智なり知恵なりを基盤に新しい経済的価値を創出するのが知識基盤社会である……という意味合いで語られてきたことが多かったように思います。

 

でも、一人一人の生、実存という見地に立ったとき、いま話してきたようなことを含め「知識基盤」と言わないと、表面的なものにとどまってしまうのではないか……ということですね。

 

西

そうですね。「情報化社会においては、巧みに情報を扱えたり、創発できたりしないとだめなんですよ」という感じで語られてきたように思います。それは「知識」というよりむしろ「情報」ですよね。

 

佐々木

さきほど、気づきを共有化していくことが「知識」を生み出す契機となるのでは、という話がありましたが、日本の学校教育の場合、先生や、地域社会や企業で活躍している人たちが、自分自身が気づきをどのように得ながら、学びを編み変えていったのかなどの体験を生徒たちに語る機会が少ないのかな……と思ったりしています。

 

前田

その通りですね。

 

西

そういうことが今まで大事にされてこなかったことはありますね。

 

佐々木

そういう体験談って、多くのことを教えてくれるように思います。「こういう本を読んで刺激を受けた」ですとか、「中学校のときの恩師がすごくよかったので、いま英語の先生をしています」ですとか……

 

犬端

その対象の面白さや妙味であるとか……

 

佐々木

「僕はなぜこれに興味をもったのか」ですとかね。

 

犬端

前田先生が以前、大学では政治学を専攻していたけれども、子どもたちに教えようとする中で世界史と向き合うこととなり、ご自身がそこから得たものを伝えるように授業を営まれた。それは形としては講義形式のものだったけれども、子どもたち自身の主体的な問題意識を喚起する機会になっていった……という話をしてくださいましたよね。それはまさにそこにつながることですよね。

 

前田

そうであったとは思いたいですね。

勇気とか自信とかいうと大げさですが、そういう経験がないと、「学びの革新」ということは言えないように思います。恥ずかしい気持ちや、隠したいこと、本当は自分のオリジナルとはいえず、人から借りてきた考えなどもあり……ただ、「借りてきたもの」であるにせよ、自分自身の問題意識と結びついたからこそ、自分なりの知識となったわけですが……その一切を踏まえたうえで生徒に自らを語ることには、勇気や、ときに居直りも必要なのですが、言ってみることではじめて可能性が出てくるということはあるんですよね。ですから、こと子どもに対しては、「言っちゃうことが許されるんだ」という雰囲気をつくることが大事かもしれませんね。

 

滝沢

なるほど。そうすると、しっかりとくらいついてくるわけですね。子どもたちもそれをきっかけにして。

 

前田

教師は教室で子どもがそういう雰囲気を出せるように、校長は学校全体にそういう雰囲気を出せるようにできればいいですよね。ちょっと理想論かもしれませんが。

 

滝沢

西さんが、教室をなんでも語り合える雰囲気の場所にしていくことが大切だとおっしゃっていましたけれども、まずそうした環境を意識して創り出していくことが、最初の一歩として必要なことのように思います。もうすぐ改訂される学習指導要領の方向性を、ここで語られてきた教室の雰囲気というところから見つめていくことも大事かと思いました。

 

 

以上