第9回「自由」について考える


「自由」からの自己了解

犬端

前回は前田先生のエッセイ「哲学する学び・民主主義の学び」にインスパイアされる形で、「民主主義」をテーマにいろいろ考えてみましたよね。その中で、「自由」がキーワードとして焦点化されてきたように思います。「自由」が内実をもって展開されてこその哲学であり、民主主義ではないのか、と。でも、それでは「自由」とはそもそも何か。「自由」という言葉を通して、人はどんな価値や可能性を見出そうとしてきたのか。「自由の本質観取」というか、あらためてそんなことを考えてみたいな、と思っておりました矢先、前田先生が今度は「自由」についてのエッセイを書いてくださいました。

 

滝沢

実は僕、最近自由なんです。

 

一同

(笑)

 

滝沢

いや、人間というものはいくつになっても、「自由」という角度から自分の状況を説明し直せるもの、自己理解ができるものなんだな、と思っておりまして。

 

そろそろ定年が近づいてきますと、何と言いますか、もっと言いたいことを言ってもいいんじゃないか、おかしいことはおかしいと言っていいんじゃないかという構えが、自分の中に自然とできてきている感じがしています。それが後輩のためになるのだとしたら、自分が泥をかぶるようなことをしていいんじゃないか。そんな感じがしてきて、そういう意味で自由なんです。自分が拘束されてきたものを相対化できている感じがして、すごく自由ですね。

 

犬端

西さんは、本質観取するにあたっては、その言葉から想起されてくる体験を分類してみるとよい、とおっしゃっていますよね。

そこから考えてみると、自由に関していうと、拘束されているものからの解放感、何かから自由になること……というのは、まずありますよね。

ただ、それだけではなく、自分が本当によいと思えることをのびのびとできているとき、「自由」という感覚は享受されていますよね。それこそ、いまの滝沢さんのお話のように。しかも、それが他者から価値あることだと評価してもらえれば、なおさらうれしくなる。そんな具合に、自己価値を関係的かつ承認的な形で展開できることが、「自由」の妙味ではないか、という気がしています。また、そういう方向で、「自由」の価値を再確認し、共有していくことが、いま大事なんじゃないかと思っています。

 

佐々木

でも、なんだか逆に、自由という言葉が単なる勝手気ままなふるまいと結びつけられて、ネガティブなニュアンスのもとにとらえられている機会のほうが増えてきているように思います。

 

犬端

たしかに、そのことが気になっています。

 

前田

滝澤さんがさっきおっしゃった、「自分はいま自由なんだ」ということを受けていうと、僕はいま、不自由なんです。まず身体的な不自由があり、そこから出てくる精神の縮こまりのような、外に展開していけないことへの不自由さがあります。もう少しややこしいことを言うと、思考の自由といいますか、自分で自分のことがうまくコントロールできない感覚、感情だけでなく、思考や集中力にしても、それをセーブする力が自由にグリップできない感覚があります。そういう意味では不自由なんです。

 

でも、そうしたことにとらわれていること自体、自分自身が長年かけて考えてきたこととは違うじゃないか、という思いもあるんです。そういう自由だけを、自由とは言ってこなかった、という思いが。むしろ、それを超えた自由を、自由の核として考えてきたんじゃないか。自律としての自由、自分の判断基準をもつ自由、そういう自由を考えてきたわけだし、それは辛うじて自分にも残されているのではないか、と。

だから、ちょっと忘れていたその部分を、もう一度中心に据えてみよう。また、そう考えてみることで、自分の自由を取り戻せるんじゃないか。いまもっているのはそんな感覚ですね。

 


「自由な社会」と言えるのだろうか……

滝沢

前田先生はいま、身体や思考に対して自分の統御できない部分を感じながら、それでも自分らしく、主体的に深く考えようとすることを中心軸になさろうとしている、ということをお話しくださいましたよね。すごく大事なことだと思いますし、自由の根幹にはそうした主体性の自由がある、ということについても共感しています。

 

それと同時に、なかなかそう生きることができなかった自分自身の現実というのも、正直にいえば気になるんです。自分の判断基準を中心軸においたうえで、自分の考えや思いを吐露しあい、そのプロセスの中で共有価値を吟味しあったりする、ということがなかなかできない現実を生きてきたようにも思います。その都度その都度にはきっと、一生懸命だったとは思いますが、腰がひけていたというか・・・もう一歩踏み進む可能性とか余地があったのではないかとも思っています。

 

犬端

民主主義社会、自由主義社会とはいうものの、現実にはただ数の力でものごとが動いていったり、ひたすら利潤を追求しようとする企業活動の中で勝ち負けのゲームに汲々とさせられ、良し悪しの感覚を擦り減らすように生きることを強いられたりすることが、ままありますよね。それは本当にそうだと思います。だからこそ、民主主義の本当の意味での担い手を育てるのが大事じゃないか、そこに教育の力点を置くべきではないか、という前田先生の問題意識があるようにも思いますが。

 

滝沢

そうですよね。……少し話が逸れてしまいますが、最近、学生時代に集会でイニシャティブをとったり、デモの先頭に立ったりなど、マルキシズムの理念のもとで社会改革に対する熱意を抱いていた同世代の人たちが、その後どんな生き方をしていったのだろうか、ということも気になったりしています。

 

結果としては、企業に勤め、一市民として家庭をもちがんばっていらっしゃる、という生活をしているのかもしれません。企業の重役を務めたりして活躍している人もいるんだろうな、と思います。社会の中枢や諸機関の上層でそういう人たちは、どのように自己理解や社会に対する理解を編み変えながら生きてきたんだろうか、などと考えてしまうんです。

 

僕の場合は、ある時実存的な不安に見舞われ、自分自身を立て直そうとするなかで、竹田青嗣さんや西研さんの哲学と出会い、社会との関わり具合をもう一度見つめ直していったということがありました。そんな経緯を通して、自由というか、主体的に考えることの大切さを若干は意識できるようになった感じはしています。

大学時代、大学院時代に、学生運動の先頭に立っていた人たちの場合はどうだったんだろうかと。実存的規定の中で社会への願いや思いをどのように意識化してきたのかなぁ、と。

 

西

僕より10年ほど上の世代の方たちは、まさにそういた運動の渦中にあったわけですよね。多くの人たちが、運動が終わった後、生き方の軸をどう定め直すかということのなかで苦闘していった。竹田さんや、小阪修平さん、橋爪大三郎さんなどは、そういう人たちのなかで、いちばんちゃんと考えようとしてきた人たちではないかと、僕には見えています。絶望や悩みもほんとうに深かったんだろうと思います。小阪さんの場合、離人症のようになった、という話を聞いたりもしました。でも、そこから逃げ出さず、どういう考え方をつくるかということに取り組み続けてきたんだと思います。

 


企業も一個の「市民」である……

西 竹田さんの『人間の未来』(ちくま新書、現在は改題して『哲学は資本主義を変えられるか--ヘーゲル哲学再考』 、角川ソフィア文庫)は、若いころから自分なりにもっていた、社会に対する問題への回答を示したものだとも言えますよね。

 

犬端

格差の問題など、資本主義社会の生み落した課題に視点を当てる一方で、人間の実存的自由を生かしていくための原理としては、他の社会制度にはない優位性があることをはっきり打ち出していましたよね。

 

西

そうですね。資本主義が、労働力の商品化を進めていくという現実はたしかにあると思います。今もまさに、過労死などの問題が浮き彫りにされていますよね。でも、企業という存在にしても、何を理念として抱き実現しようかとするかによって、実は相当多様な動きができるものですよね。「資本というものは無差別に利潤を追求し、労働力を商品化し、肥え太っていこうとするものだ」という見方しかしないと、市場経済というものが、実はその枠組みの中でもちうる様々な可能性について、まったく見えなくなってしまうと思います。

 

それで僕自身は、「企業も一つの市民である」と考えるしかない、と思っています。「企業市民」というのはちょっと変な言い方かもしれませんが、企業にしても社会の一つの構成員であり、当然利潤追求する権利も持つ一方で、同時に社会を構成する一員としての責任も問われる。そう考えるべきではないかと。

 

竹田さんにしても僕にしても、一回ヘーゲルに立ち戻って考えようとしたのは、「市民として対等性をもって共存する」というところから、言い換えれば「民主主義」「人権」というところから、全部考え直す以外にないと思ったからです。自由な人格をもつ人間が、「市民」としてお互い対等に認めあい、そして互いの生きる条件をよりよいものにしていこうとする。そういう社会の像です。企業を「本性的に悪なるもの」とみなすのではなく、企業も「企業市民」として、社会に対する同様の関わり方をもつべきではないか。そういった像、つまりは社会理念をはっきりさせていかなければいけないし、そこが、私たちが社会に関わったり、教育のあり方を考えたりするさいのいちばんの土台になるだろう、という考えからなんです。

 

竹田さんの『人間の未来』は、ヘーゲル論としての部分をもっていますが、その動機としてあるのは、「個人の自由の相互承認」と「一般意志」を土台にする社会と政治のあり方こそが、だれもが共有しうる社会理念たり得る、という主張だと思います。自由の相互承認は、ヘーゲルをもとにして竹田さんが作った言葉で、ヘーゲルそのものでは「自由な人格の相互承認」という言い方になっていますが(『法の哲学』§71)、要するに、それぞれが自由に生きていこうとする意志をもった存在であることを互いに認め尊重しあうことです。「一般意志」はもともとルソーからきた言葉ですが、「互いに共存するために必要・有益とどの構成員も認めること」を「法」として取り決める、という考え方です。竹田さんは、この一般意志をさらに具体化して「一般福祉」等々の概念として発展させています。

 

先ほど、佐々木さんから、「自由」という言葉がネガティブに使われることが増えているという話が出ましたが、それは保守派からばかりでなく、ポストモダンの影響を受けた現代思想にしても同じですよね。

ポストモダンは近代批判としての側面を強くもっており、「自由な社会、自由な社会というけれども、結局規律訓練、人を調教する技術ばかりを生み出してきた。学校、工場、刑務所、監獄、みんなそうではないか」ということを主張します。ある局面だけ取り出してみると、そこには確かにリアリティもあるかもしれません。

 

でも、そういう考え方ばかりしていると、例えば、「それでは学校はいったいなんのためのものなのか」ということについて、もう位置づけがつくれなくなってしまう。「自由な人々が一緒に、互いの自由を認め合いながらともに生きていく」という社会理念がない限り、教育の理念も成り立たなくなってしまいます。

だから、前田先生が今度のエッセイにも書いてくださったように、「自由」を基盤にした社会と生き方に立ち戻ったうえで、教育の営みの意味をもう一回考え直していくことは、いまとても大事になっていると思います。

 

前田

そうした竹田さんと西さんの理論に対して、「そうなんです」ということを、教育の場からしっかり受け止め、具体論を出さなければいけない。教育に携わったものとしてはそう思っています。先日ルソーの『エミール』を読み直して以来、それがずっと心にあり、それは言わなくてはいけない、と。

 

「自由」というのは、そこを基点に国家のあり方、資本主義や経済のあり方を考えていきましょうということと同じように、教育の基点としても考えられるべきものではないか。自由を基軸に置いたうえで、どういう学習方法があるのか、カリキュラムがあるのかということを考えていくべきなんじゃないか。僕は、そんな思いをもちながら、それを十分にできてはいませんでした。その反省を踏まえながら、この短い文章を書いた感じです。


そこにあるのは、西部劇の世界?

西

すごく明確になってきました。そうですよね。教育のいちばんの基盤を自由に置くんだと。自由を基盤とする社会をどう育てるのか、というそこに置くんだと。そこを明確に立てないといけない。ほんとうにそう思います。

 

西

それで、僕はちょっとこんなことも考えているんです。

「自由」については、いろんな感度の違いや受け取り方の違いがありますよね。例えばアメリカのリバタリアン(自由至上主義者)の場合、「それぞれの人の自由と所有」がいちばん大事であり、政治制度としては最小国家がいちばんよい、という考え方をとります。でも、それは現実には共和党支持の富裕層のイデオロギーになっている。つまり、「どのように自由をとらえるのか」ということはとても重要なんですよね。

 

ヘーゲルの『法の哲学』は、まず「所有論」から始まります。そこにはこんな論理が展開されています。……人間は自分の行動などを自分で決められる「内的な自由」をもっている。しかしそれを現実化するためには、「これは自分の自由に使えるものだ」「これは自分の土地であり自由に耕してよいものだ」というように、自分の意志の自由を実現するための事物を所有する必要がある。それがなければまったく空想の世界というか、頭の中だけでの自由にしかすぎなくなくなってしまう。……つまり、土地などの「所有」が、自由の実現には欠かせないということです。

 

そこで、「他の人びとを自由な人格として尊敬せよ」(§36)ということが出てきます。自由の相互承認と言っても同じですが、それが実際にはどんなものかというと、ほとんど西部劇の世界です。これは僕の土地、こちらは君の土地だ。君は僕の土地や持ち物を侵さないでくれ、突然侵入して僕を殺したりしないでくれ。僕も君の土地や持ち物を取ったりしないし君に危害を加えたりしないよ、と。つまり、法や権利、広い意味での社会正義のいちばん最初にあるのは、相手の人格と所有物を尊重するということだ、とヘーゲルはいうのです。より正確にいえば、所有物を大切にするということは、その持ち主の人格を大切にすることにもなる、というわけです。

 

大事な点ですが、ここでは「共感性」は必要とされないんですね。「下手に手を出すと自分がやられるぞ」ということでいいわけです。保安官と法律があって「相手のものをとると、牢屋にぶち込まれる」ということだけ決まっていればよい。

つまり、「自由な人格の相互承認」とはいっても、お互いが同じ人間として、どういう生き方や思いを持っているかを気にしあい、そこに共感し、ともに社会を生きるものとしてどう考えていけばよいのかを問題にしあうような状態ではないのです。

 

そうなのですが、『法の哲学』では、それぞれの所有を認め合って侵さないようにするということの背景には、潜在的には一般意志があるという言い方がされています(ヘーゲル『法の哲学』§71など)。逆にいえば、顕在的かつ自覚的には一般意志は存在しない、といってもよい。例えば、土地にだれそれのものだということを示す囲いがしてあると、「そこに手を出したらまずいからやめておこう」という状態なんです。ヘーゲルでは、その状態の次に、「みんなでこの社会を、ともに生きるものとしていい形で作っていこうよ」という共同の意志、つまり、一般意志が自覚されてくる段階が出てきますが、それは「道徳性」と呼ばれています。僕は、この「一般意志が自覚される」ということが非常に大切だと思うのです。

 

ところが、リバタリアン的な自由の場合は、ある意味、こうした西部劇的自由にとどまっている感じなんですよ。

 

佐々木

確かにそうですね……。「私のものは私のもの」という自由を認めたいという考えが、色濃く出ている主張だとは感じられます。

 


相互不可侵から相互理解へ

西

そう、「相互不可侵」という意味なんですよね。それが絶対なんです。でも、僕の考えでは、相互不可侵が究極ではなくて、お互いの人間としてのありかたや人間性への共感があり、ともに社会をつくっていくものとしての自覚が得られていくなかで、それぞれの人の自由も当然尊重され大事にされていくと思うんですよね。

 

その意味でいうと、「自由な人格の相互承認」は、相互不可侵にとどまらず、対話的関係を通して、価値観の共通性や違いも含めたうえで互いを承認し合うところまで進まないといけないと思います。それぞれの感度の違いを認め合ったうえで、「ここはお互い大事なことだから守っていこう」というように、ともに社会をつくる市民としての自覚が得られていく中でこそ、本当の意味での人格の承認が生まれてくると思っています。

 

ですから、「どこまでが自由か」の領域は、多少伸び縮みしますよね。昔は自分の部屋でギターをかき鳴らしても大丈夫だったかもしれないけれども、これだけ住宅環境が密集してくるともうだめでしょう、みたいに。そういうことについて、語り合いながら調整できることが大切なわけですよね。

 

ですから、リバタリアンのように、「相互不可侵の自由」が究極であり絶対なのだと考えるのではなく、語り合う市民たちが、ともに一般意志を確かめ合いつくりだしながら生きていく、そうするなかで互いの権利が尊重され守られていく、という、ルソーやヘーゲルの哲学が照らし出す像に立ち返ることこそが必要だし、それでないとだめなんじゃないかと思います。

 

犬端

それぞれの生命や財産をお互いに侵さないようにする、というのは基本的な第一歩ではありますよね。でも、そこに終始しているだけでは自由な社会としての妙味は得られない。互いの自発性、創造性を生かしあえるような市民社会の中でこそ、自由の概念がほんとうに生きたものとして展開していくようになる。

 

佐々木

たしかにそうですね。「相互不可侵の自由」だけのものではない。

 

滝沢

僕も、自分の中に、リバタリアンのいう相互不可侵の自由だけでなく、相互承認としての自由に対する感度があるかどうか内省してみようかと思います。もしかしたらないのかもしれないけど……

 

一同

(笑)

 

滝沢

でも、やっぱりまず相互不可侵ということが担保されていないと、怖いですよね。すごく不安なことになるでしょうし。

 

西

たしかにそこが基盤ですよね。「まずはそれがないと怖いから」ということから始まるというのは、ほんとうにそうだと思います。

だからヘーゲルが展開しているのも、いきなり語り合って一般意志を作り出すということにはなっていない。人間的な相互理解よりも、まず、互いの所有が損なわれないようすること、相手に対してそうするので、自分に対してもそうしてほしい、というところからのスタートとなっている。

 

犬端

先回、西さんが、ルソーが社会契約論の草稿で書いていたことについて触れてくれましたよね。賢者と独立した人間との対立を描いた場面で、賢者は正しいことをしなさいと主張するけれども、独立した人間は、本音の部分からそれに抗う。そんなこと言っても現実はどうなのか。権力をもった人間の支配があるのじゃなか、と。

 

西

権力者に対して媚びをうることが、いちばん自分を守ることにつながる、と。

 

犬端

そのように、まず自分の命、家族など身の回りにいる人たちの安全を守るのが大事だ、というところから始めてよいのだし、むしろそこから始めることができない限り、現実に届く思想にはならない、ということですね。

 

滝沢

それがない限り強い論理にはならないですよね。

 


「伝統」は原理となりうるものか

前田

今回この「自由」についてのエッセイを書くにあたって、政治や社会、国家や経済の理論を考えるうえで、自由を基点に考えるように、教育においても、自由を基点にして語ろうとする理由は何だろうかと、もういちど自分自身を振り返って考え直してみたんです。

 

逆にいえば、僕は、伝統を重んじることも大切だと思っています。共同性、共同体を重んじることにしても、それは大事だという思いは、自分の中にあるわけです。でも、それが教育の基点になるのかといったら、そうではない。やはり「自由」だと思うんです。

 

西

なるほど……

 

前田

個人的な話ですが、僕自身は、父親が自由の大切さを主張し、母親のほうは伝統とか経験知に重きを置こうとするような家庭環境の中で育ちました。で、小さいときから、「分裂している。まずいなこれ」と、ずっと思っていたんですね。

 

一同

(笑)

 

前田

その問題を、自分の中で消化したいと思って考え続けてきました。で、今は父の言っていたことのほうが正しかったと思っている……という話では全然ないんです。そうではなくて、総合して何が大切か、何が教育の基点かといえば、「自由」だと。原理としては自由しかない、という感じがありますね。

 

僕の父の場合は、「○○からの自由」というところに、ウェイトを置いていたように思います。

 

犬端

束縛や規制からの自由……という感じでしょうか。

 

前田

ええ。でも、それを超えて、一般意志への自由という感覚を含め、自由の概念をバージョンアップしていくとなると、原理としてはもう自由しかないなと思っています。

それを学びの場で、教育の場で、基点として考えるべきもの、原理として考えるべきものだと思って、こういうエッセイを書いたわけです。

 

滝沢

前田先生がおっしゃるような、自由を軸にした教育論ってあまりないかもしれません。みんな自由という言葉は使うんですよ。教育学者たちは。でも、いま先生のおっしゃったような、自由を基点とする徹底した論というのは、あまりないかもしれない、僕の浅学からしたら。

 

西

なるほど。「伝統や共同体は教育の原理」になるか。コミュニタリアンなどはそうした立場をとるわけですよね。

 

犬端

大切なのは、個々の実存、一人一人の人間が納得と了解を得ながら、互いの関係の拠り所となる価値を認め合ったり、ルールを築いたりしていくことですよね。

 

滝沢

そうすると、そこに伝統や共同性も包含されていくわけで、ベースになるのはあくまでも自由であると。

 

犬端

そうですね。しかも、西さんのいう「対話的な関係」を通して、共有価値を得ていく手応え、充実感を繰り返し経験していくなかで、そうした営みそのものに対する「信」を築いていくことが大事なんじゃないでしょうか。そこに教育が果たす役割もあるのではないかと。

 

滝沢

もうすぐ告示される高等学校学習指導要領にしても、公民科が「公共」になったりするなどが予測されますが、共同性や伝統を大切にしようという方向性が強く打ち出されていきますよね。その是非論はいろいろあるにしても。

 

西

そうした中で、自由を基点として考えるべきではないか、ということを出していくことは大事ですよね。

 

佐々木

「伝統や共同体」と「自由」というのは対立的にとらえられがちですが、それが実はつながりうるものだし、つながってこその伝統、共同性なんだということを打ち出していくことは確かに必要ですよね。

 

滝沢

そうですよね。以前教育基本法が改訂されたとき、自民党が愛国心という言葉を入れようとしたのに対して、公明党からの反対があり、「国を愛する心」というやや緩和された表現になった経緯もありましたよね。その後、学習指導要領に、伝統という言葉がしっかり入ってきたとき、僕はやや身構えましたね。戦前回帰をねらっているんじゃないか、などと疑心暗鬼になり警戒心を抱きました。でも最近はけっこう慣れてきて……。

 

一同

(笑)

 

滝沢

いや、実際のところは、「伝統」に対する自分自身の考えが少し変わってきた感じがしています。先回西さんも、妻籠という町の再興のことを話してくれましたよね。過疎化し、高齢化社会の中で、みんなで共有できる価値、財産を地域の中から見つけだし、それを柱に新しいまちづくりを構想する営みもあるわけですし、そうした自治の発想にもつなげながら、共有価値として伝統を見いだそうとする視点を教育のなかで得ていくことは……大事かもしれない、と思い始めたりしています。

 


「成熟した社会」の歩むべき道とは?

滝沢

先ほどの資本主義の話にしても同じですよね。僕らの学生時代のころといえば、資本主義といったらもう即否定的に反応していましたが、さっきの西さんのお話のように、「これからの未来をみすえた企業市民」という考え方をもてるようになれば、それが編み変わっていくことがあるわけですものね。

 

前田

先回、西さんが民主主義社会においては「結社の自由」が核になるんじゃないかとおっしゃっていましたよね。

 

犬端

あ、今日の「企業市民」の話にしても、そこにつながってますよね。

 

前田

ええ。例えばNPOというものは、僕らの子どものころにはあまりなかったですよね。

 

犬端

非営利的な社会活動を目的とする組織、というのは確かに最近になってからのものかもしれませんね。

 

前田

それで、企業にしても、社会のニーズに応えるための組織という意味では同じじゃないか、そのためにみんなで集まってやっているんだという発想、それこそ結社の自由という観点に立つことができれば、利益を追求することのみが企業の目的ではない、ということになってきますよね。これは社会活動、こちらは経済活動というように分けられなくなってくる。そうした組織は、そもそも身分制社会の中ではあり得ませんよね。近代社会において、自由が大事にされるようになって、はじめて出てきたものだといえる。それは、資本主義=企業=悪という図式は成り立たないんじゃないか、という話にもつながるわけですよね。

 

西

そうですよね。いま企業ではリベラルアーツの研修が注目されているようで、企業に呼ばれて哲学の話をする機会があり、経営コンサルタントの方ともお会いする機会がありました。お話ししてみると、コンサルタントの方も、この会社は社会に何を提供するのかということや、会社での営みが一人一人の社員の幸せにどうつながるのかなどということを、すごく意識しているんです。たしかに、そこがないと、社員のモチベーションがあがらなくなってしまいますものね。会社経営の発想が変わってきている。

 

佐々木

社会が成熟してくるにつれて、どのように価値を創造し、共有していくのかということをきちんと考えない限り、企業も行き詰ってしまう。経済が成長している時代だったらまだしも、いまは本当に、さまざまな会社がその存在意義を問われている感じがします。ただただ利潤をあげるというだけの発想では先へと展開はしていかない……。

 

西

たしかに、今おっしゃったように社会の成熟ということは関係しますよね。それに、企業がリベラルアーツに注目していること自体が、もはや「会社はただ儲けさえすればいい」とは言っていられなくなっていることを示している。僕らが若い頃の企業観とは相当変わってきていますよね。

 

佐々木

高度成長期と比べて、業績がなかなか伸びない、という苦しさもある一方で、企業のありかたそのものを見つめなおすよい機会になっていると思います。多面的な価値観を展開していかない限り、お金だけではやっていけない、という現実がある。

 

西

利潤を上げることでモチベーションをあげていく、という感覚だけではなく、企業の営みを人々の幸せにつなげていくようにしないと、「こんなことやっていても意味ないな」ということになってしまう。そういう感度が出てきていますよね。

 

佐々木

そうですね。そうした現実を見据えたうえで発想をうまく切り替えられている企業と、そうできない企業との違いが、経済界でもはっきり出てきているように思います。

 

犬端

利潤がなかなか上がりにくい状況もありますし、環境や資源との関わりのもとに「持続可能性」という言葉がキーワードになるようになって以来、ただ利益を追究すればよい、という発想を見直す必然性がでてきたこともありますよね。みんなにとって、未来の人たちにとって、という視点が、ずいぶん意識されるようになってきたように思います。その後の原発事故もありましたしね。

 

経験を重ねていく中で、「みんなにとって」という視点を併せ持ちながら、今の自分自身ありようを自然と見つめ直していけるようになる……という過程を成熟というのだとしたら、そうした形で成熟していく社会を意識できるようにすることが大事なのかもしれないですね。

 

滝沢

起業戦略の一つとして、「サステナブルをめざして」などと看板を掲げるだけではなく、5年先、10年先、100年先の子どもたち、孫たちがどうなのか、という当事者意識をもって持続可能性を問えているのか、ということも問題ですよね。

 

犬端

たしかに「きれいごと」として口にされている現状はあると思いますし、「そういう自分自身はどうなんだ」ということも当然ありますよね。でも、理念や原理を吟味しあい、そこに向けて内実ある言動を積み重ねていくことで、はじめて人々の営み、社会の営みに対する「信」が築かれていくものだと思うし、そこから現実がよい方向に動いていく可能性も出てくるんじゃないでしょうか。逆に言うと、それ以外に可能性はないのではないかと思います。

 

前田

そうですね。たしかに現実のところ「きれいごと」で言っている企業は少なくないかもしれない。でも、そういうことならざるをえないですよね。何十年後、百年後と考えた場合に。

 

それでやはり「自由」という概念にこだわりたいんですが、「人々の自由を実現できなければ、自分の自由は実現できない」ということについていえば、環境問題はまさに典型的ですよね。

 

犬端

ああ、それはほんとうにそうですね。

 

前田

自分だけ助かろうとしても、助からない。気候変動からはだれもが自由にはなれないわけですし。

 

滝沢

今日の西さんのお話でいえば、相互不可侵の自由だけではやっていけないことがはっきりする場面、言葉は悪いですけれども、素朴なエゴイズムがいい意味で淘汰されていくようになる場面ではありますよね。

 

犬端

確かに、「みんなにとって」という一般意志を意識したうえで、創意工夫しあったり、ルールを考えあったりしない限り、一人一人の幸福は得られない、ということがはっきりする機会ですよね。

 

 

以上