第8回 「民主主義」が意味するものとは


民主主義を考えていたら、哲学をしていました……

犬端

今日は先日前田先生がお書きになったエッセイ、「哲学する学び・民主主義の学び」をめぐってお話ししてみようということでしたね。

 

前田

僕が教師として目指してきたことは何かといえば、「民主主義の実質化」ということで、それには20代のときからこだわり続けてきました。

そして、教室の実践で、民主主義をどう質的に向上させるのか悪戦苦闘するなかで……これまでもお話ししてきましたが……どちらかというと哲学不得意だった自分が、必然的に哲学するようになってしまっていた。僕自身の中で、「民主主義」と「哲学」とがどう交差し合うようになっていたのかということをお話ししてみたら、ここでの一つの論点になるのではないかと思ったんですね。

 

自分がどういう観点に立って教育に臨んできたのかということを、自分の中で確認してみると、それはやはり「民主主義の質を高めたい」という願望なんです。「みんなで決める」というような民主主義の原則については、一応理解されてはいるのかもしれない。でも、今の世の中を見てみると、「みんなの利益をみんなで考え合っていく」というその実質的な部分は、ほんとうの意味で浸透していないんじゃないか。その重要性がきちんと認識されていないように僕には思えるのです。その結果どうなるかというと、「結局は数の勝負だ」というようなことになってしまう。それが現状なのかもしれない、と思ったわけです。

 

個人的なことから考え直してみると、進路相談や生徒指導に関しては、生徒の悩みや気持ち、思いを汲み取ることから始めるということを、僕としては少しはできたのかな、と思っています。でも、教科指導のなかでは十分それができてはいなかったのではないか。そんな反省があります。

 

学校教育全体の課題としてもっと広げて考えてみると、「生徒に学習意欲がない」という現状がここ何十年間底流にありましたが、「いま学んでいることは、自分にとって一体何なのか」という部分をあやふやなままにしてきたことが、民主主義のことをはじめ、いろいろな問題として発生しているんじゃないか、という気がするんですよね。「生徒がどう考えるか、どう感じるか」ということをひとまず置いておいて、「今は分からなくてもいい、大人になればその知識の背景にある意味は分かるものだから」というように逃げてしまっていたのではないか。そこに真正面から取り組まなければだめなんじゃないか、と。

 

ちょっと話が変わりますが、90年代後半に教育センターで、「総合的な学習の時間」の準備が始まり、プロジェクトの一員として僕は加わっていました。そのとき直感的に、ああこの時間は哲学する時間なんだ、と思ったんですね。

 

おそらくこんなことを考えたていたんだと思います。……ここで言われているのは「知の総合化」ということだけども、そのためにまず大切なのは「知の自分化」なんじゃないか。この知識は自分にとってどういう意味があるのか、この学びは自分にとってどういう意味があるのかということを、「それは置いといて」ということにしておかない時間、そこにきちんと立ったうえで学びを成立させようよ、というのがここで求められているのではないかと。

 

犬端

前田先生は今度のエッセイで、人それぞれの体験から始め、問題を共有し、考え合い、そこから共通に納得できるものをつくろうとする学びは、「哲学する学び」であり「民主主義の学び」じゃないか、ということを書いておられますよね。さっきおっしゃった、「みんなの利益をみんなで考え合ってく」という民主主義の実質を、実感をもって理解し、共有し合えるようにするためには、まず「自分にとって」という場所から始めていかないと……ということでしょうか。そしてそこに、民主主義と哲学の思考が交差する点が出てくるのではないかと……。

 

前田

そうですね。自分なりに、さっきから言っている民主主義の文脈と、哲学の本質観取がどういうふうに結びつくのだろうと考えてみたんです。それで、つくづく考えてみると「これは民主主義そのものだ」と思いました。「哲学する」というのはこういうことだと思ってはいましたが、「民主主義する」というのも、そういうことなんじゃないか。そう思ったんです。

 

西さんも、『本質学研究』での論文に書かれていましたが、例えば「自由」の本質観取を行うとき、「それぞれの人がどういうときに自由を実感するか」というところから始めていくのが大事だ、と。そのとおりだなと、あらためて思ったんです。大上段に構えた自由の定義から始めるのではなく、教科書に書いてある定義から始めるのでもなく、さらには教師の知識から始めるのでもなく、それぞれの生徒がどういうときに自由を実感するか。そこから始める。ああ、そういういうことだなあ……と。

 

それができない限り、民主主義の制度はこうだ、その問題点はこうだ、ということを教えられても、身に付いたものにはならないと思います。知識を理解することは当然大事ですけど。もっと根底的にいえば、「自分から始める」でいいんだと。各人から始めるんだと。そこから取り組もうとする意志から始めるんだと。そのうえで「考え方というものは人それぞれですからね」ということで終わるのではなく、共有可能な意味や価値を話し合い、考え合えるようにしていく。そこが大事なんじゃないかと。

それを国語科にしろ社会科にしろ何にしろ、その教科の時間なり、「総合的な学習の時間」なりに、年に一回ということではなく、ポイントポイントで考えさせていくのが必要ではないか。それは知識を習得すること以上に根本的なことじゃないか。そうあらためて思いました。

 

そんなことで、本質観取のワークショップは、まさに「民主主義する学び」ではないかと、あらためて思ったんです。それは学校ではもちろんですが、職場でも、地域でも行えることですよね。「そんなまだるっこしいことをやっている場合か」ということを言う人もいそうですが、今まさしく「やっている場合」なんだと思うんです。それがこのエッセイを書くに至ったきっかけですね。

 

西

それはたしかに、とても大事なテーマですね。何かの問いなり課題なりを「自分事」として捉える、ということは、人まかせにしない、ということですね。自分のなかに興味が起きて、自分なりに納得が欲しくなる。また、クラスの課題が自分も含むみんなにとって大事だと思える。そういうことですね。

そういうときに、それぞれの参加者の「自分にとっての意味」を互いに出し合えば、皆が真剣になって聞く。そういうプロセスのなかから、「私も納得できるし皆も納得できる、そんな共通了解が確かに得られた」という感触が出てくる。――確かに、哲学の本質観取のワークショップでも、部活やクラスで話し合って何かを決めていくときでも、その場で「起こっていること」の内実は深く通じ合っていると私も思います。

この前、ひさしぶりに内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書)――前田先生も若いころに読まれていたそうですね、名著ですね――を読み直そうとして手に取ったのですが、そこに、「参加する」ということは英語では「take part」で、そこには責任・役割を担う、ということが入っている。しかし日本語での「参加」だと、とりあえず混ざっておく、というような感じになって、自分自身が担うという感じにならない、当事者にならない、というようなことが書いてあったんですね(p.17以下)。

もっとも、学校とかクラスというものは、子どもの側からみると、もともと「自分が選んで参加した」というものではないかもしれません。とくに小学校中学校では。しかし、民主主義を担いうる市民を育てる、というところからみると、何かのテーマなり問いなりを自分たちで関わりあいながら答えを出していく、とか、行事をいっしょにつくる、でもよいのですが、「当事者」として関わり合う学びをつくることがとても重要になってくると思います。なかなか難しいことですけれど。

 

佐々木

前田先生にとって、以前お話しした自治の問題と民主主義は、どのような重なり合いをしているのでしょうか。お話しをうかがっていると自治の延長線上に民主主義があるのかな、という感じが伝わってくるのですが。

 

前田

核になる部分は自治だと思っています。それは最近になって、ということではなく、昔からずっと、それこそ30数年来思っていますね。いまもそう思っています。

 

佐々木

だからこそ、まず自分自身にとってその問題がどうかということを知ったうえで、周りの方々の気持ちを汲み取り、社会参画する能力を身につけ、自治への意識を高めることが大事だし、それが民主主義の拡大……というか、成熟につながっていくのではなないか。そんなイメージでしょうか。

 

前田

そうですね。



民主主義は、「正しい」ものなの?

 犬端

今の話にもつながることだと思いますが、「民主主義こそ何より大事な価値だ」ということを前提にするのではなく、どういう経緯のもとでその考え方が育まれてきたのかということを紐解きつつ明らかにしてみたい、という気がするんですよね。民主主義という概念のもとで、これまで人は何を求めようとしていたのか、ですとか、教育の場面でそれがどのように語られてきたのか、などということをもう一度確認し直してみることで、より本質的なところからその意義や価値を共有化していくことが今とても必要ではないか……という気がしています。

 

前田

実はある段階までは、僕の中にも、啓発性が無意識のうちにあったのかな、と思うんです。民主主義についてよく考えている自分と、あまり考えていない生徒、という図式があったように思います。

でも、「民主主義すること」ってそもそも何だろうね、というところから考え合っていく発想がないと、そうした啓発性だけが残ってしまいますね。それでは、そもそも自分自身の考えていたような民主主義にはならない。いくらあれこれ知識を得たって、それだけでは実質的な民主主義の教育にはならないんじゃないか。いまさらながら反省して思考整理してみると、そんな感じになります。そして、これもいまさらながらですけれども、哲学の「本質観取」の場合、そういう構造にできているよな……ということですよね。

 

犬端

ものごとの本質的な価値を深く納得できる形で得ていくためには、「そもそも自分にとって」「そもそも何のために」という場所から始めることが不可欠だし、そこを足場にしながら共有可能性、普遍性を探り当てていこうとする哲学的思考=本質観取の発想が、「民主主義を民主主義的に考える」ためにも欠かせないものじゃないか……ということでしょうか。

 

前田

そうですね。以前、「前田は権力者か」という変な質問から倫理の授業を展開していったという話をしましたが、それも僕の中では本質観取的なものをイメージしていたように思います。要するに、自分がどういうときに「権力」を感じているかというところを、具体例を通してまず考えさせてみたかったんです。そういうことを意識したうえで取り組んでみて……ある程度まではできたと思います。

 

でも、年間計画の中で、ここでは自由の本質観取、ここでは権力の本質観取というように計画的に取り組んでいけば、そこからもっと深めていけたんじゃないか、という思いが今はあります。いろいろな思想家や哲学者が、自由や権力に対しての考察、というか、それぞれの本質観取に取り組んでいますよね。そんなことにも触れさせながら、常に「生徒の意識から立ち上げていく」ことに計画的、持続的に取り組んでいけばよかったと反省しているんですね。

 

自分の実践が不十分だったことは反省すべきですが、学校と教育はこれからも続いていくわけですので…今後そのところをもっと考えてもらえるようにしたい、という思いがあります。

そのためにも、さっき言ってくれたように、「民主主義は正しいもの」ということをいったん置いてみることが、必要なんじゃないかと思います。

 

西

なるほど。

 

前田

「そもそもそれは正しいものだから」という前提で話をしてもだめだと思うんですよね。それは置いておいて、自分はどういうときに自由を感じるか、権力という言葉をどういうときに使うか、そういうことを繰り返し考え、ともに考え合っていく。そういう経験が大事になると思います。知識との相互作用もありますが、まず、民主主義は正しい、はじめに民主主義ありき、ということではなく、そういうことから始めていくのが大事なんじゃないかと。

 

それを道徳に置き換えると、「みんな優しくし合おうね」ということが最初にありきではなく、「みんないじめはやめようね」ということありきではなく、子どもの正直な意識から始めることが大切ではないかと思います。言い換えれば、「みんな優しくなろうね」というのが、あらかじめのゴールとして定められているのではない道徳を始めなければいけないし、民主主義の教育もその方向で取り組まなければならない、ということなんですよね。そういう教師としての覚悟をもって、「本質観取」に取り組んでみるのが重要だ、という話です。ちょっとややこしい言い方になってしまいましたが。

 


現実につながる思想をめざして

西

民主主義というのは、政治制度でもありますが、一つの理念ですよね。理念というのは、それがなぜ大事で必要なのかということを確かめられたときに、初めて生きたものになる。民主主義がなぜ価値あるものとして認められてきているのか、それを確かめ直していくためには、いまのお話のように、あらかじめ価値あるものだという前提をいったんはずしておかなければいけないわけですよね。ではそれを置いておいたうえで民主主義をどういう切り口で考えていけばよいのか……ということになってきます。

 

ちょっと変なところから話をしてみますが、ルソーが『社会契約論』を構想していたときの草稿が残っていて……「ジュネーブ草稿」と呼ばれていますが……その中で、「聖職者と独立的な人間の対話」という話が出てきます。

 

聖職者が、「あなたはよいことをしなければいけない。人のためになること、世の中のためになることをしなければいけない」という話をします。すると、独立的な人間は、その聖職者に向かっておよそこんなことを言うのです。「あなたは聖職者だからそんな話ができるけれど、自分と家族が生き延びるためには、権力者、つまりいちばん力のあるものに取り入って、気に入ってもらうことがいちばんだ。そして自分はより弱い者から搾り取るようにする。上には媚び、下からは奪い取る。これがいちばん安全に生きる方法なのではないか。」と。

 

実社会って、実際にそういうことがありますよね。組織の上にいる人から、「こいつうるさい奴だな」と思われないようにすることが、身の安全にはいちばんよい、ということが実際にあります。自分の提案したことや、議論し合ったことが組織の運営にきちんと生かされていく、という実感をもつことができれば、真剣に意見を言う気になれるでしょうが、そうしたことがまったくないとなると……力のあるものに対しては媚びて身を守り、さらに条件の厳しい貧しい社会であれば、下の者を踏みにじって奪い取ることだってあるかもしれないですよね。

 

専制国家的な体制のところでは、必ずそういう構造になっている。企業のような組織でも、経営者や理事長などが強固な権力をもっているところでは、その胸先三寸ですべてが動いてしまうこともままあるわけです。

 

ですから、ルソーの描いた「独立的な人間」が「生き残るためにはそうせざるを得ない」と言うことには、リアリティがあるわけです。ルソーはそのことをよくわかったうえで、「ジュネーヴ草稿」の続きのところで、この独立的な人間に対して「社会契約論」のプランを示してみたい、というんですね。社会契約論のように創られた社会では、「みんなの利益を考えてルールを作り、守る」ということが、いちばん上手に自分の自由と利益とを守ることになるのだ、ということがわかるはずだ。これを深く納得してくれれば、下のものから奪い取ろうとする残忍な悪党が、社会の秩序を守り育む人に変わるはずだ、と言うのです。

そこがおもしろいなと思うんですね。

 

本編の『社会契約論』では、いちばん冒頭に「正義と利益の一致」という言葉が出てきます。社会契約論のキーワードといえるものの一つですが、今お話したジュネーブ草稿の挿話が、その意味合いをとてもよく表していると思います。自分と家族の身の安全や利益を大事にして生きていきたい。そこを無視して、「これが正しいことです」と言ってみても、何の意味もないのではないか……と。自分の利益を守っていくためにも、みんなで社会契約を確認し、皆にとって役にたつルールをつくり守っていくことが必要になる。それが私の得になり、他の人の得にもなり、それぞれの自由をちゃんと守ることにもつながる。そんなことをルソーは考えているんですよね。

 

それとの関連でちょっと補足すると、おもしろいことに、ルソーは『社会契約論』の中では、「憐れみ」、つまり共感性については全然触れていないのです。

 

滝沢

『エミール』の中では、憐れみや共感性を育てていくのが大事だということを、さかんに主張していましたよね。

 

西

そうなんですね。ルソーは『エミール』でも『人間不平等起源論』でも、人間の本性は二つある、ということを言っています。まず、自己保存を求める「自己愛」があり、それと同時に、他のものが苦しんでいるのを見ると、気の毒になり助けてあげたいと思う気持ち、即ち「憐れみ」がある、と。でも、『社会契約論』では、憐れみのことにはまったく触れていないんですよ。

 

おそらくそれには理由があって、共感性や憐れみを表に出すよりも、まずは自己愛、私利私欲を大事にすることから始め、その私利私欲を貫くためにも「みんなの利益」を考えてルールを作り、それを守っていくことがいちばんよい方法だ、という筋を通したかったからだと思うんですよね。

 

でも実際には、例えば議会で法案をつくるための議論をするとしても、そこに共感性が働かない限り、「どの人にとっても役立つこと」を構想し合うことはできないと思います。その点からすると、「共感性」「憐れみ」に触れてもよかったのでしょうけれど、あえてそこは出さないようにした。そこが社会契約論の優れたところにもなっている。

 

犬端

「社会契約」の原理を、誰に対しても、より説得力をもつような形で展開しようとした……ということでしょうか。

 

西

そういうことだと思います。

 


民主主義を民主主義的に学ぶために

西

つまり、民主主義を伝えるに際しても、「みんなのことを考えましょう」「それぞれの人間のことを尊重しましょう」ということを言ってもいいわけですし、学校教育で「人を傷付けないようにしましょう」などと標語を作り、みんなで確認できるように教室に張っておくことも、最初のうちはありかもしれませんが……それでもある時点では、「そもそもなんでそうした社会の仕組みが必要なんだろう」というように、根底から問うていくような機会をつくらないといけないと思うんですよね。

 

なぜ民主主義の仕組みが、近代以降世界中に広がり、多くの国では憲法として掲げられているのか。……ほとんどの国の憲法が人権と民主主義を基本にしているわけですよね。そのことには理由があるわけで、それはいったい何だろう、と考えていくことが必要だと思います。

前田先生が言ってくれたように、民主主義はよいものなんだ、というあらかじめの前提をいったん外したうえで、なぜ先人たちがこれを選び取ってきたのか、自分自身の生活の中で、なぜそれが必要になるのかということを考え直す、そういう機会があってこそ、はじめて民主主義がそれぞれの中で生きたものになる。また、逆に言うと、そういうプロセスを経ない限り、本当の意味で生きたものとはならないんじゃないかと思います。

 

民主主義が形骸化して、結局力のあるものが多数派を獲得し、自分の思い通りにしているだけだということになってしまうとなると、それはまさにルソーのジュネーブ草稿で、「独立した人間」が主張した図式そのものですよね。その場合、少数派は社会契約を破棄しようとするかもしれません。ルソーはそんなこともさかんに言っています。

 

滝沢

それは、どういうことでしょう

 

西

そもそも社会契約は、「みんながそれぞれを対等な人間として認め合い、平和共存していけるようにしよう。そのときのルールは、どの人にとっても利益となるようなものにしよう」という約束から始まっているわけですよね。でも実際は、権力をもった多数派がすべて自分の都合のよいようにしてしまっている。だったらそんなルールはもう破棄しよう。奴らは自分にとって敵だ、という具合になる。

 

滝沢

そして、テロ行為に奔ったりしてしまう……?

 

西

そう、テロをするか、分派独立運動をするか……平和的独立運動を展開するのだとすればいちばん性質がいいけれども、場合よっては「復讐してやれ」というようなことにもなりかねない。そういうことを可能性としては含んでいるわけですよね。

 

滝沢

未来への可能性を感じられなくなり、暴力に奔ってしまう、ということがあるかもしれない、ということですね。

 

西

ええ、そういうことですよね。

民主主義が何のためにつくられ、それがどういう形で働くときによく機能しているといえるのか、ということを、それこそ民主主義を構成する一人一人の人間が……全員は無理かもしれないけれども、相当程度の割合の人が分かってくれていないと、制度だけ残っても、そのいちばん大事な働きが実際には損なわれていってしまうと思います。

 

ですから、絶えず、民主主義の意味を問い返し、「こうなったらまずいし、こうなったらいいね」ということを確かめ合おうとする営みが、民主主義社会の中に織り込まれていないといけませんよね。そして、教育というものが、社会を構成する人間を育てようとするものであるならば、それは間違いなく教育の最も重要な柱となるものではないでしょうか。

 

滝沢

福島から避難してきている子どもたちが、いじめを受けているという話にショックを受けていますが、そんな話題なども民主主義について考え直すきっかけになりそうですよね。

 

西

そうですね。いろいろなケースを想定させたり、具体的な事件を取り上げてみたりすることもときには必要になりますよね。でも、最終的には、民主主義が自分自身の生活を成り立たしめているうえで非常に重要な条件なのだということを、日常的な場面から実感できることが大切ではないでしょうか。ふだんの学校生活でも、クラスの雰囲気が悪くなったり、いじめが起きたりするわけですし、それを媒介にできればいちばん強力な学びになると思います。

 


覚悟をもって信頼する

西

それにしても、民主主義の教育って、今どれくらい真剣に考えられているのでしょうね。ものすごく大事なことだと思いますけれども。

 

前田

本当に大事ですよね……。

 

西

教室は、まさしく「民主主義の学校」というか、そうでなければならないと思います。いろいろな人たちが集まって場をつくり、ともに授業に取り組み、休み時間も含めて一緒に生きていくわけですし、部活や学校全体の行事も大切な経験になりますよね。

 

そのとき要になるのは、前田先生がエッセイに書いておられたように、生徒が、ほんとうに自分たちが大切にされている、認められているという感覚をもつことができ、それをベースにしながら共有可能な価値を見出そうとすることができるようにする、ということだと思います。

 

ある事柄をめぐって誰かが発言したら、それをちゃんと聞き、「こんなことかな」と問い掛けてみたりできることを、場として保証していかなければならないし、そこに関しては先生の力が、とくに小学校や中学校ではとても大きいと思います。「ちゃんと最後まで話を聞こうよ」とか「なんとなく分かったことにはしないで、ちゃんとみんなで確かめようよ」などとアドバイスをする。また、ときに「通訳」してあげることも必要だと思います。「~さんの言いたいことはこういうことかな?」というように。

 

自分の想いを他人に通じる言葉にする、というのは、相当難しいことがあります。その子が、まわりの子たちになかなか理解されがたいような事情をもっていて、でもそれをわかってもらおうとしている場合には、とくにそうですね。そんなときには、通訳をするのも教師の大切な役割だと思うのです。

 

そのようにして、「ここでは自分の意見が受け止めてもらえるんだ」という経験を、生徒に積み重ねてもらう。こうして理解される嬉しさと周りへの信頼感をもてるようにすることが何より大事で、それが実感できるようになれば、自ずと他の人の意見をちゃんと聞こうとするようになってきます。自分が発言するときも、みんながちゃんと聞いてくれると思うからこそ、どういったら通じるか、と発言の中身を一生懸命考え始めるようになってきます。

 

哲学の「本質観取」の場合、互いの体験の根っこにあることを取りだそうとするものですから、それ特有の大切さがあると思いますが、しかしそれよりも大切なのは、こうした「受け止め合い、理解し合う」ことの嬉しさや信頼感のもとで互いにとって大切なことを考え合っていく経験を得ていくことであり、それは国語の授業でも、道徳の授業でも、理科の授業のなかでも、可能なものだと思います。

 

滝沢

アクティブラーニングとして盛んに話題になっている取り組みにしても、いま西さんが言ったことを抜きにしては生きたものにはならない、という感じがします。

 

西

そうですね。アクティブラーニングと呼ばれているものも、そこで同時に民主主義を学んでいるんだ、ということくらいのことを言っていいし、また、そうでなければだめだと思います。

 

前田

さきほど、「教師としての覚悟」という変な言葉を使いましたが、指導主事としての覚悟も同じなんですよね。

 

エッセイにも書きましたが、ああ、失敗したな、という体験が僕にはあります。いい雰囲気で若い教員たちの研修をしていたんですよね。あなた方の悩みはなんですか、困っていることは何ですか、というやりとりを中心にしながら展開していたのですけれども……その研修の最後に、学習指導要領の解説をしました。それで僕が、今回の改定の趣旨はこうこうで、ポイントはこうこうで、と話し始めたら、研修に来られていた先生方が、あきらかに落胆の表情を浮かべたんです。

 

この人は、それこそ自分たちの思いを大切にし、それを汲み取り、そこから考えてくれる人、みんなで考えあう機会を大事にしてくれる人だと思っていたのに、そう思って何日も研修をしてきたのに、最後はこれかよ……という感じが漂っていました。

多分あのとき、「指導主事として覚悟を決めている」ということが、彼等に十分に伝えられていなかったのではないかと思っています。

 

滝沢

現場の先生方は、学習指導要領が改訂されるたびに、「またかよ」と感じる部分もあるようすね。結局、文科省や委員や大学の先生が好きなことを言っているだけなのに、失敗は全部現場の自分たちにすりかえられているという思いがあり、指導要領に対して信用していないというか、あまり注視して聞こうとしていない傾向がある、という話をうかがったことがあります。

 

前田

そうですね……。「覚悟」というと物騒な言い方ですけれども、裏返してみれば「信頼」ですよね。教員に対する、そして生徒に対する。それから始められないと、研修も、教育もだめなんじゃないかと思います。

 

滝沢

そうした「覚悟」「信頼」があるかどうかということって、相手に伝わってしまうものなんですね。

 

前田

そういうものだと思います。

 


自分の中の「観点」と向き合う

犬端

ただ、指導要領の中にも、その作成の関わった人たちの理念はあるように思うんですよね。「目下の社会情勢にきちんと対応していますよ」ということをアピールしたいがためのキーワードが、やや浮いている感じを受けることもありますが、個々の人間がそれぞれの生を大切にしたうえで、関係をつくり、社会に関わり、共通価値を構築していくという、近代社会での要となる力を大切にしたいという思いは、潜在しているように思うんですよね。その気になれば、そこを汲み上げ焦点化していくことができるように思います。

 

ですから、大事なのは、目の前にある指導要領そのものに真理があるわけではないということを踏まえたうえで、「教育の本質は何か」という考察に立ったうえで、どうやってこの指導要領をよりよい方向に展開していくのかを考え合い、確かめ合っていくことのような気がします。

 

西

そうですね。これって結局何が大事なのかということや、これを通してどういうことに取り組んでいくのが必要なのかということを、一回確かめ直してみないとだめですよね。

 

犬端

前田先生が指導主事の立場にあるとすれば、なにしろそういうことに取り組まれるのではないかと思いますし、実際に取り組まれてきたのではないかと思います。

指導要領ではこう表現されているけれど、要するに大切なのはこういうことですよね。だったらみなさん(先生方)は、すでにこんな形でそれに取り組まれてきたのではないですか……というような問いかけを、研修でなさったという話を以前うかがいましたが、それが印象に残っています。

 

前田

確かに、「指導主事としてこの人はどんな理念をもっているのか」ということが問われますね。それを抜きに、「これはこういうことだ」という伝達型になってしまうと、結局何も残らないことになってしまう。いくら問題解決的な学習が大事だと言っても、それを頭から押し付けようとすること自体が、もう問題解決的な発想とはいえないんじゃないの、ということにもなりかねないですし。

 

犬端

でも、もし当時の若い先生方が、前田先生の指導要領に関わる話に対して、「なんでそれが大事なの、ただの押しつけなんじゃないの」というように、たとえ十分な思慮にたったものではなく、直情的なものであったにしても、そうした自分自身の思いを意識し、表出できる機会を得ていたのだとしたら、それはとても意味のあることだったのかもしれない……と思うんです。そうした思いが立ち上がることが、「それでは自分にとって大切なことって何だろう」というように、自分に内在する価値観や観点を自覚化していくきっかけになるようにも思いますし。

 

前田

そうですね……また違った角度から話をしてみますが、指導主事をしていたとき、「社会的なものの見方、考え方を育てる授業」を現場の先生方と共同研究したことがありました。

そのとき、「自分は観点や問いを、無自覚のままどのように持ってしまっているのか」ということを考えさせるのって大事だな、と思ったんですよね。

 

「社会的なものの見方が大事」ということに対しては、多くの人は賛成すると思うんですよね。でも、そこはちょっと置いておくんです。そして、自分自身の中に問いがあるからこそ、一つの観点をもっているからこそ、ある社会の見方をしているのではないのかということに気付かせていく。「ふだん無意識に行っていることを自覚化できるようにすることが肝心だよね」ということを、現場の先生方とのやりとりのなかで確認したことがありました。

 

滝沢

それはすごく重たいご指摘のような気がします。わざわざ問題解決学習というまでもなく、自分の問いをもつことは大事だし、そこから始めることが根幹にある……ということですよね。それを持たないまま、自覚しないまま、単純に覚え、共感し、という形で知を構築していくことも可能ではあるけれども、それでは身についたものにはならない。自分自身の内側にある観点や価値観を自覚化するのは、ときにしんどいこともあるけれど、そこから始めることが大事だし、それがある意味では本質観取の出発点にもなる、ということですよね。

 

前田

「先入観や偏見を排除しよう」ということは、もちろん一般論としては大事だとは思いますが、それがもともと大切なことだから、そうしなければいけないことだから、というような形で伝えられても、身についたものにはなりませんよね、そのためにも、自分が無自覚にもっている観点にきちんと向き合えるようにしていかないと……。「もともとそうなんだから、そういうふうに見えるに決まっているじゃない。見えないほうが認識不足なんだ」という発想では、そもそも「先入観や偏見を排除する」こと自体無理なんだと思います。だから、まず、自分に内在化していた観点に気付くことから始めようよ、という話なんですよね。

 

犬端

先回の教哲研で「知識」のことが話題になりましたよね。そのときの西さんのお話を今振り返ってみて、大事だな、と思ったことがあります。

自然科学で求められる知のあり方と、より価値的な内容に対するそれとでは違いがある。自然科学的な発想と方法がすべての規範としてみなされるのはまずいのではないか……フッサール現象学の話に絡めながら、そんな話をしていただきましたよね。

 

それで、考えてみると……自然科学のベースとなる事物知覚の場合、「人と同じように対象をとらえるための条件はなんだろう」ということを考えるのが大事になりますよね。つまりそこには、必要に際してみんな同じように、いつも同じように、その対象に処していけるようにするための知を構築しようとする問題意識が背景にあるのだと思います。するとそこでは、「人間という生き物」としてみんな共通にもっている……竹田(青嗣)さんは「類的身体性」という言い方をされていたと思いますが……揺るぎない世界分節のようなものを括り出していくことが肝心になりますよね。

 

でも、より価値的な問題に対する共有可能な知を築くとなると、まず、それぞれがどう思っているか、どう感じているか、ということを出発点にしないと、とどのつまり「しようがないもの」になってしまうように思います。それぞれが生きてきた条件、周囲の人との関係のなかで重ねてきた体験を通して感受化・身体化された価値観を備えている。その違いを前提としたうえで、自分の中に内在化された価値観や観点を自覚し、場合によってはその成り立ちようを紐解き直してみることが、よりよいと思える価値を相互の関係のなかで築いていくためには欠かせないと思いますし、本質観取を拠り所とした語り合い、考え合う営みがその基軸になっていく……ということなのかな、と思います。

 

前田

共有知をつくろうとする持続的な営みが確かに必要ですね。

 

犬端

そうですよね。だからこそ、「ものごとの意味や価値に対する共通本質というのは、そうやってはじめて得られていくものなんだ」ということや、それを手にしていくことの意義を、教育の場を通して実感できるようにすることが大切だと思います。

それで、前田先生がおっしゃる「民主主義の実質化」には、そうしたことも含意されているんじゃないのかな……と勝手に考えたりもしています。

 

「みんなの利益をみんなで考え合う」ということは、「私利私欲=それぞれが生きている現実からどうルールをつくるか」ということと同時に、生きることの喜びや可能性をいかに関係的な形で持ちうるのかということにもつながっているのではないか。個々の実存がよりよく関係を生き、よりよく社会を生きるための可能性が、民主主義という言葉を媒介にしながら考察され続けてきたからこそ、それは大事なものといえるんじゃないか……そんなことを考えさせられています。

 

滝沢

民主主義って、そんな深いところを射程としてもっているものなんですね。知の共有化とその喜びも含み込んで、それは展開していけるものなんじゃないか……というお話ですね。

 

犬端

人間的価値への本質的理解、人間的価値に対する自己了解と共通了解が深まっていくほど民主主義への本質的な理解が深まっていく、というような関係があるのではないかと思います。それに、自己のありようを関係的にとらえかえし、さらに関係の中で自己の可能性を見出していくために知を展開できる社会であるとしたら、そこには民主主義が息づいているといえるんじゃないか、とも思います。

 

佐々木

たしかに、民主主義以外でそういう生き方が許される社会というのは、想定できないですよね。

 

前田

なるほどね……。逆にいえばそういうことになりますね。

 


要になるのは「結社の自由」

滝沢

今の話とも重ね合わせながら、先日西さんも講演された、地域の自治と再生に関するシンポジウムのことを思い出していました。その中で教育の可能性について触れていた方がいましたよね。民主主義の本質を考えるトレーニングを受けていれば、それぞれの地域で、いい形で話し合い、合意をつくり、という可能性が生まれてくる。そういう積み重ねの中で、自分たちの町をみんなでつくっていこうとする発想が定着するようにもなる。原理的にはそういうことですかね。

 

西

このシンポジウム(自治しうる〈主体〉と〈場〉を問いなおす―基礎自治体のサスティナビリティとローカル・ガバナンスに関する国際シンポジウム―、東京経済大学にて、2016,11/5-6)では時間がなくて話せなかったエピソードを、一つお話してみたいのですが。

 

シンポジウムで取り上げた地域の一つに、旧中山道の宿場町で妻籠(つまご)という町があります。昔は宿場町として栄えたけれども、近隣に鉄道が通らなかったこともあり、どんどん寂れていってしまった。それで、まちの再生をどうするかが問題になっていた1960年代半ばに、小林俊彦さんというキーマンが現れた。農業指導員でもあり、同時に獣医の仕事もしておられたそうですが、優れたアイデアマンで、妻籠のある南木曽町の町長さんが、「この町を立て直して、みんなが暮らしていけるようにするための方法を考えよ」と小林さんに命じたそうです。

 

それで、どうすればいいのか、ノイローゼになるくらい考えたそうです。妻籠は谷のようになっているところで、土地がないので農業をする条件にも恵まれていない。交通の便もよくないので、資本を入れ経済成長をして、ということも現実的に難しかったんですよね。

でも、昔ながらの宿場の建物は残っており、旅人が来ればあたたかく迎えるという気風も残されている。では、それを保存し生かしていくことで観光の町として再生していくことができるんじゃないか。一見価値がないと思える自分たちの町にも、視点を変えれば資源といえるものはあるし、それを大事にしていく生き方ができるのではないか。そんなことを考えるようになったそうです。

 

こんなアイデアを小林さんが抱いたのですが、大切なのは、彼を支えた人たちがいたということです。戦時中、有名なドイツ語学の大家である関口存男さんを始め、社会心理学者の先生などがこの妻籠に疎開していて、町の公民館で若い人たちと勉強会をしたりしていた。そのとき関口さんたちが残した言葉が今も語り伝えられていて、それは「論じて激せず」というものです。つまり、一所懸命とことん話し合う。でも腹を立ててはいけない。そして「人の話は最後まで聞く」という言葉もありました。そのような、「徹底して語り合う文化」を残していったのですね。

 

そのとき語り合っていた若者達のなかに、学校の先生になったりして地域に残った人たちがいた。彼らが、小林さんと一緒にとことん語り合いながら、「これが大事だよ」とか、「これならみんなもやる気になれるよ」だとか、「具体的にはこうしてやるのがいいよね」などなどのことを、相談しながら、再生へのプランを作りあげていったんですよね。

 

現在妻籠は、海外からの観光客も多い観光地となっていますが、公民館でのそのような活動がなければ、おそらくそれは実現していなかったはずです。

 

滝沢

まち全体の経済力の向上が自分たちの生活の向上にもつながり、地域の伝統に対する価値を見出せるようにもなる、ということですね。

 

西

ええ、その通りですね。自分たちが、楽しく誇りをもちながら生きていけるような生の可能性を、語り合いながら紡ぎ出し、確かめ、現実化していった。そういう実例なんですよね。

 

滝沢

日本の他の地域でも、「妻籠から学ぼう」という動きは出てきているんでしょうか。

 

西

古い街並みを保存して観光につなげていく、という点でいえば、妻籠はもっとも早い例です。埼玉には川越市というところがあって、蔵の並ぶ通りをメインとして多くの人が観光で訪れますが、それらのさまざまな地域が妻籠に学んだのではないかなあと想像しています。現在で私のわかるところでは、「日本の最も美しい村」ということで、観光を一つの柱としながら、自分たちの地域を営んでいこうとする人たちの中での交流があり、学び合いもあります。

 

それで、民主主義を制度的、政治的な面にいったん戻して考えてみると、やっぱり人間の自由な活動を保証できる政体であることが重要なんでしょうね。

 

以前、教育学者の苅谷剛彦さんと対談して本を出したことがあるんですけれども(苅谷剛彦、西研『考え合う技術』ちくま新書、2005年)、その中で「結社の自由」というものが、民主主義の中ではいちばん大事なことなんじゃないか、ということを言った覚えがあります。もちろん、言論の自由、職業選択の自由などのさまざまな「自由」の権利はすべてが大事なものですが、それらは結局のところ、人間がさまざまな形で集団をつくり、自分たちなりの価値を創り出したり実践したりできる、そういう機会を保証することにつながってきます。個々人の自由の保障がまず土台となりますが、次に「自由をどう使って何をするか」という点まで考えてみたとき、「結社の自由」は民主主義の重要なポイントになってくると思います。文化的な営みも含め、ともに具体的に何かを作りあげる作業そのものが、広い意味での民主主義だともいえる。土台として自由権があり、その自由を使って民主主義をつくりあげる、そうした関係があるのかな、と思ったりしています。

 

犬端

「結社」の自由というのは、共通した事情をもつ人たちがグループをつくり、自分たちの境遇に即した主張を展開するための自由が担保されることだと思っていたふしがありますが、今の西さんのお話をうかがっていると……「これ、おもしろいよ」と言ってみたら、「たしかにいいね」という反応が返されてきたり、「いや、こうしてみたほうがもっといいんじゃないの」という展開がさらに生まれてきたりですとか……そんな形で表現のゲームが賦活していく自由を担保できる社会の仕組みこそが大切なもので、そこにポイントがあるような気がしてきました。

 

西

そうですね。それがないとつまらないですものね。

 

前田

その感覚ですよね。民主主義って。そもそも悲壮な顔して話し合うだけのものではないでしょうからね。

 

 

以上